16 ※
生まれてから七年後に捨てられて。
七日間、半死半生で彷徨い、倒れ、拾われて。
二ヶ月を傷の治癒と体力の回復に費やし、その後は先代が旅に出るまでの約十年間、薬屋の跡継ぎとしてずっと戦ってきた。
今になってようやく全貌が分かり、入植が開始されている未踏の大地を、何年も前に同じ薬屋の跡継ぎ候補として育てられていた当時の仲間達と共に手探り状態で走破したり、一切の武器や薬を持たず魔物の巣に放り込まれたりしてきた。一ヶ月の合計睡眠時間が三時間に満たなかった事さえある。
彼女が生きた時間は二十一年と数ヶ月。しかし、その中身は異常に濃い。
答えを間違える度に鞭が飛んできたり食事を抜かれたりした先代の座学のお陰で薬の事ならエレオノーレより詳しく知る者はヴァーレどころか同じ大陸にはいないと言えるし、戦闘力は一対一という条件が付くが、何でもありなら敗北という言葉はまずない。エレオノーレが明確に自分より能力が勝ると思う人物は先代だけである。ただ、他者より遥かに抜きん出るその二つを得た代わりに奇人変人であった先代のせいで正しい人の感性を失ってしまったのだが。
彼女の周囲をぐるりと囲むそれら、異形の獣たち。姿形は只の獣だが中身は得体の知れない謎の強酸を含んだスライムの変種。
数は数え切れぬ程におり、それら全てに呼吸はなく、ただ一点、エレオノーレだけを見つめている。
本体はどこにいるのかエレオノーレは見える範囲全てを見渡したがそれらしき姿はない、巨体ゆえにここには遅れているのか。はたまたその身全てを獣に転じさせたのか。あるいは隠れて必殺を見舞う機会を伺っているのか。
分からない。が、やる事は一つである。
命術を発動する。元々強靭な身体が更に強靭になり、
「ふッ!」
その場にいた全ての獣が感知出来ぬ速度で前に踏み込み、足先を伸ばした剛槍の如き右の蹴りが真正面にいた熊の身体を貫いた。
付随する衝撃波が熊の身体を爆砕されたかのように飛び散らせ、周囲の獣と木々や青草に酸の飛沫を浴びせた。
強酸を浴びた樹木が白煙を上げて焼け爛れていく。だが、一方で獣は無傷である。中身が一緒なのだから当然と思うべきか。木々と同じように白煙を上げる己の右足をちらりと見ながらそれらを観察する。
命術を発動している間は余程深い傷でない限り瞬く間に治癒する。更に今のは衝撃波を纏っていたので足に付着した酸は少なく、一呼吸終える間に傷が治癒した。
エレオノーレが動いた分、囲みを移動させた獣らを睥睨しながら考える。
(んー……弱点がスライムと同じなら核を壊せば終わりなんですけど……)
熊を粉砕して分かった事は身体の中央に核がなかったと言う事だけだ。どのような種であれ、スライムの核は身体の中央にある。更に危機に瀕した場合、それを移動させると言う事もないので身体の中央を貫けば特に問題もなくすぐ撃破出来る相手なのである。
しかしその熊の核があるべき場所になかった。直撃、もしくは衝撃波で粉々に飛び散った可能性もあるにはあるが蹴り足にはそれなりの硬度がある核の手応えがなかったし、飛び散った飛沫にもそれらしきものは特に無かった。
「ん?」
目端に何かが映る。見れば熊を構成していた強酸がもぞりと、まるで意思を持っているように同じそれぞれのものと融合していくではないか。
それらの幾つかは近場の別の獣と融合していくが、同じ熊を構成していたものと溶け合い、混ざってまた獣の姿を形成した。
しかしそれは熊の姿ではない。角も見事な体格の立派な牡鹿である。
その瞳にやはり生の輝きはない。ほー、と一通り観察してから雲を纏った高速の左のハイキックで頭を吹き飛ばした。
ばしゃりと再び強酸の飛沫が飛び散り、
「―――!」
場が動く。
周囲の獣全てがエレオノーレに殺到した。
押し合い圧し合い、まるで一つになろうとするようにも見えるそれらに対し、エレオノーレは己の身体を竜巻の様に回して対応する。
三百六十度から迫り来る全てを両の手に持った二振りで迎撃。獣人にすら捉える事の出来ぬそれを受けて獣達が四散していく。
実刃と衝撃波の二つが壁となって獣達の接近の一切を阻む。だというのに何の小細工もせずただ突撃ばかり繰り返すその一向に諦めが見えないのをいぶかしみ、エレオノーレは一瞬攻性が止んだのを確認し、回転を止めて空を見る。
「まぁそんな事だろうと思ってました」
獣達を陽動として空より急降下突撃を仕掛けて来る鳥獣を確認し、一歩横にずれてから切り上げて真っ二つにした。
割断を受けた身体が地面にぶつかり、ばしゃりと強酸に身体を変じさせる。足の指が浴びて爛れたが気にもせず跳躍し、木の枝に飛び移る。
「うーん、爆薬欲しいですね……」
野獣なら有り得ない高さを跳んで来る獣らを切り払いながら呟く。
拉致が明かない。真っ二つにしても違う獣に変じたり融合したりして頭数を減らせないし、根滅させるにしても今のエレオノーレでは範囲に対する攻撃力が足りない。
相手が心臓を動かし、脈打つ正しき生があるならばどうとでもやれる。だがこれは無限に生まれるゴーレムを相手しているに過ぎない。対処方が分からなければこのままでは力尽きるのを待つばかりである。流石のエレオノーレとて何時までも不眠不休で戦えるわけではない。
ふと眼下に望む獣らがエレオノーレに顎や爪先を向けていた。切り払いつつもあら、もしかしてと思う間にそれらや体表が内側から気泡を湛えているかのように膨れ上がり、
「でしょうね」
酸の水弾が雨霰と眼下より降り注いだ。
枝から枝へ飛び移りながら回避し、場所を変える。
弾幕への恐怖は全く無い。弾速はエレオノーレの移動速度に追い付いてはいないし、移動先を予測しての偏差射撃もない。近付くとなると少々面倒だが手段が無いわけでもない。
ただ近付いたとしてもそれでどうにか出来るわけではない。核を潰せば終わりのスライムなら突撃して終了だが眼前の獣らにはそれがない。
(ほんと、どうしましょうかねぇ……)
リンゼを回収して振り切って逃げようかなぁと戦意もどこへやら考えていると、
「んぶっ!?」
余所見をしていたせいで足場とは別の木の枝に顔面を強かに打ち付けた。
両腕を合わせたものより太い木の枝をへし折る程の勢いではあったがダメージはない。しかし驚きを得て足が止まり、
「あら」
バランスを崩して落下した。
落下先には獣らが大口を開けて獲物が落ちて来るのを待っていた。捕まれば取り込まれて抜けられぬ可能性がある。エレオノーレは神術を使えない。それは風術を使って空を飛ぶということも出来ないわけでこのままでは美味しく頂かれる可能性が僅かにある。
ただ、手足が何かに届けば動けるというわけでもある。
逆手に持った左手の採取刀を木の幹に突き立てる。太くもないが細くもないその樹木はエレオノーレを採取刀越しに苦も無く支え、
「あらららら」
しかし、多少速度は落ちたが落下し続けていく。
理由は明瞭で、刃を地面に向けて刺したために採取刀が木の幹を切り裂いているのだ。剃刀のようなその刃は技術がなくとも速度を込めれば鋼鉄を切断することも容易い。全盛期と比べると落ちたとはいえ、膂力も速度も技術も兼ね備えるエレオノーレが振るった場合の斬撃を確実に防げるものは早々ない。その切れ味はエレオノーレの体重程度の負荷でも樹木を割断するには容易である。
なので、
「よっと」
右足を振り上げながら地面に刃が向いた状態、垂直に突き立った採取刀を手首の捻りだけで刃の向きを強引に平行にした。
常軌を逸した力技を用いられてこじられた樹木に歪な大穴が空くが、落下はつんのめる様にして止まる。同時、上げていた右足を高速で振り下ろせば、エレオノーレに食いつこうと跳躍していた獣数匹らを踵で粉微塵にし、採取刀を引き抜きながら自身は振り抜いた右足に引っ張られるように後方へ身を回しながら跳ぶ。
地に足を着ける前に真横から突撃してきた鳥獣を身体を捻って避け、地面から飛び掛ってくる獣を切り払い、殴り飛ばしながら着地点にあった樹に狩猟刀を食い込ませ、幹に足を着けて地面と並行に着地する。
一息の間もなくその次の瞬間、深く大地へ潜った木の根が半ば地上へ出てくるほどの強烈な踏み込みの負荷を樹木に与えつつエレオノーレが獣の群れの中心へと大加速した。
その理由は簡単だ。
(この場にいる全ての獣を霧にすらならないほどに消し飛ばす)
恐らくそれすらも致命傷にはならぬとはエレオノーレは思うが何か見えてくるものがあるかもしれない。少なからずの傷は負うが動きが阻害されない程度であれば気にすることでもなく。
出す速度は最大のものとは遠いが散らすには十分である。己が身を砲弾として突撃した。
空中で身を反転し、足から行ったそれはその進路上にあった獣全てを着弾の威力と衝撃波で粉砕し、霧と化してもなお止まらない。
その速度ゆえに身に浴びた強酸はほぼ風圧で吹き飛んで致命的なものになることもなく、受けた細かなものによる傷も身を捻り、次の樹木へ到着する頃にはほぼ癒えていた。
樹を軋ませながら着地し、再び同じ動き。酸弾による迎撃をものともせず、再び砕き散らす。
都合四度、その動きを繰り返せば攻撃行動を取るものは何もいなくなった。残るのは再生と融合をしようと蠕動する獣の残骸である。
強酸で白煙を上げながらも高速治癒のお陰でエレオノーレに目立った外傷はない。敢えて言うならば髪が半分以上焼け落ちてウルトラロングがショートカットになった程度である。
それも瞬く間に戻り、白煙も上がらなくなってもまだエレオノーレへ害意を向けるものはいない。
再生が遅くなっている、とエレオノーレは思った。まだどんな獣も元の形を僅かでも成してはいない。蠢いて集まり、復元する動作は続いているが、それだけである。
(少し効果はあったようですね……)
ただ気になるのはやはり核らしきものはない、ということだ。砕き散らした獣のどれにもなかった。
核がないスライムなど聞いた事が無い。目の前のこれは通常とは違う変種のようではあるが、それでも無いというのはおかしい。核は人間でいう心臓や脳なのだ。生命活動に必須であるので無いのに動き回っているならば死体が彷徨っているのと同じ理屈である。
死体が歩き回るなど有り得ない。霊体ならば戦場跡や、墓場で良く見る事が出来るが意思も宿っていないものが動き出すなど空想の中だけだ。
(上位精霊……ウンディーネみたいなものでしょうか……)
上位精霊とは炎精や水精のような一般的な精霊より更に上の存在であるものだ。それらは自然が豊かな場所にしか存在せず、また、自然その物に宿っていると言われ、ウンディーネならば山奥にある湖に存在する事が良く知られており、人が目にすることは出来るが行くのが困難な場所に存在している事が多い。
また、精霊は周囲一帯から追い払う事は出来るが害する事は出来ない。元々生物ではなく、太古の神々があらゆる場所で人を見守るために己の身を変じさせたモノが精霊というなんとも起源に疑いのあるものだ。それを信じるならば精霊は規模が小さくなったとはいえ神そのものであり、上位精霊ともなれば言葉を喋り、こちらとの会話を楽しんだり知恵を授けてくれることもある。
(コレが上位精霊だとは思えませんが)
しかし、未だ蠢く変異種はエレオノーレには神性を感じるどころか邪悪そのものに見える。上位精霊である可能性はまずない。何か変化がないか油断無く周囲を見ながらしばし考える。
(スライムの変異種であることは確実……。確実なんですが酸の強さも行動パターンも段違い。通常の変異ではこうならない筈が何がどうなったんでしょう……。変な命脈の中り方しましたかね)
変異種というものは全ての魔物に例外なく存在する、と言われている。また、それらは変異する前より格段と強くなっており、知能も発達している。スライムが変異したとすれば、個体差はあるものの身体が最低でも二回りほど大きくなり、元々素早い動作が更に速くなって高度な神術も使ってくる。
原種である元の魔物と比べて絶対数は圧倒的に少ないものの、対峙すれば死人が出ることが普通な相応の強敵になる。命脈と呼ばれる大地の遥か深くに流れている神秘的な力の奔流を受けた物がなると言われてはいるが、命脈というものも、原種が変異種になる過程すらも誰も見た事がない。誰も事実を確かめられず、理論としてはうそ臭いが言葉として通じる程には知れ渡ってはいる。
エレオノーレもかつてスライムの変異種とは戦った事があり、確かに相応に強化されていたもののここまでではなかった。変異にも幅があるとはいえ、少々行き過ぎている感じがする。
五感をフルに駆使して警戒しながら地上へ降り、右手の狩猟刀で蠕動する変異種の一部を掬ってみる。
赤黒い。まず見て思うことがそれだ。まるで流れて時間が経った血の様である。
採取刀を持った左手の人差し指を突っ込んでみれば、白煙と共にエレオノーレの指が爛れていく。通常のスライムならば傷など付けることが出来ない白肌が見る見るうちに溶け落ちて内部を晒していくが、エレオノーレは痛みなど感じていないようにそのまま捏ね回した。
(やっぱり核がない……。どういう理屈で動いているんでしょう……)
改めて確認していると突如、狩猟刀から前触れなしに顔面へ向けて飛び掛ってきたので顔を傾けてかわし、振り返って狩猟刀の腹を真下に叩きつければ水面を勢い良く叩くような破裂音と共に霧散した。
(そのくせ再生力は通常種以上……どうやって倒せと……)
そのまま観察していると叩き付けた変異種の一部が、地面にぶちまけられたものを寄せ集めて既に三分の一ほど形を取り戻していた。残りは霧に近い状態になったので再生に時間が掛かるか、あるいは出来ない筈である。
無限とも言える再生力と、あらゆる攻撃を拒否する強酸の身体。その身を獣に転じて追って来る知恵や食らえば重傷は免れない強力な一撃。そこに意思たるものは見受けられず、何時までも、どこまでも追って来る。
負ける気はしない。だが、このままでは勝てる気もしない。御伽噺のゾンビよりタチが悪い。エレオノーレはそう思った。