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14 ※


走り続けたその先で眼前に広がったのは赤だった。

 大地、木々、草花にふんだんに振り撒かれたそれは鉄臭さと生臭さが混ざったような臭いを周囲に漂わせている。エレオノーレにとっては嗅ぎ慣れたものだ。

 また、足元には溶けた様相を魅せるぐずぐずの肉の塊のようなものが三つ、転がっていた。それの一つには僅かに溶け残った五指のようなものがある。

 それらを見て、直ぐに誰のものか分かり、硬直したエレオオーレの鋭敏な耳が溶解音を捉えた。

 まだ少し遠い。しかしもはや走るには至らぬ距離だ。十歩ほど先、大木と茂みに隠れた奥からその音は聞こえていた。

 疾走によるものとは明らかに違う心臓の拍動の速さ。呼吸の荒さ。手の平や背中に嫌な汗が吹き出る。

 親しき者を喪失するその恐怖。白く遠く、崩れそうな意識を必死に支えながら、まだ大丈夫。これは違う。別の何かだ、と半ば現実逃避しながら音の発信源へと歩を進め、

「………――」

 そして、それを見た。

 真紅の粘液で構成されたその身体は先ほどより二周りほど大きさを増していた。追跡の道中で数多の獣を取り込んだせいだろう。表面を泡立たせながら不気味な蠕動を繰り返している。

 また、その身体から驚くべき事にまるで分裂するかのように獣を生み出していた。

 しかもそれは生まれたばかりの幼獣ではなく、既に成熟した形だ。その粘液の中に、最初から動物が潜んでいたかのようだ。その毛皮に粘液の雫一つ付けず、体内より現れ、エレオノーレと相対する。

 しかし、認識してはいたもののそんな事はエレオノーレにはどうでも良かった。彼女の目は既にとある物に釘付けだったのだ。

「リン、ゼ……?」

 エレオノーレと相対する変種、その体表から臍より下を取り込まれたリンゼを見て縋るような声を上げた。

 リンゼはぴくりとも動かない。顔が見えずとも、声が聞けずとも一目で分かる。力なくだらりと下げた首と右腕には既に命の色はなかった。

「あ、はは……リンゼ……? 左腕落としてますよ……これですかねぇ――」

 乾いた笑いを上げながら膝を突いて足元に転がっている、先ほどの物とは違う肉の塊に触れ、

「っ」

 焼け付くような痛みが走って思わず取り落とした。その拍子にぐずぐずで保たれていた肉塊が白の固形物が入り混じった粘液状になる。

「あ、あ……」

 白煙を上げる指先が白光に覆われ、見る間に修復される。己だけに適用される癒しの力。己が身より大事な者を癒せなければそんな力なんの意味もない。完全なる死者を蘇生する方法などこの世にありはしない。

「っ!」

 触手が鞭の様にしなり、呆然としていたエレオノーレの腹を強かに打った。ただの人間なら内臓が破裂していてもおかしくない一撃だ。

 振り抜かれ、足が浮く。息が一瞬詰まり、受身を取る事も出来ず、大木にまともに叩き付けられた。

 白煙が上がり、腹部が焼け爛れる。痛みと衝撃に思わず咳き込み、膝を突く。低くなったエレオノーレの視界に触手の飛沫で保持していたベルトが焼け落ち、中身が散らばったアイテムポーチが映った。

 それら散乱した薬を胡乱に見つめ、

「……?」

 その中に酷く目立つ物を見つけた。酸で焼けたフレンチベージュ色の布の小袋。その穴から球形純白の物が転がり出ていた。

 それは薬だ。だがエレオノーレが作ったものではない。調合自体は先代がしたものだ。しかし先代と共に採取する事すら困難な材料ばかりを使ったその薬はそんじょそこらの薬とはわけが違う。希少な材料しか使われていないそれは人事不省の傷すら癒し、天命すら覆す。

 死人すら蘇ると言われるそれは先代から伝えられ、エレオノーレだけが作る事を許された。

 その薬の名は、死返(まかるかえし)。確定した死を死神に突き返し、死に行く運命(さだめ)を捻じ曲げる。

 薬の名前と、効能を思い出した時。

「―――!!!!」

 エレオノーレは咆哮した。




◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆




 己の分体を宿らせた獣が人間のような形をした者を引き摺ってこちらにやってきたのを変種は温度で感知した。

 まだ生きている、と判断したのはそれが弱弱しい動きながら大地に五指を突き立てて牽引への抵抗を見せていたからだ。

 変種に視認するための目は無い。故にそれが目当ての人物かは分からないので、獣の目を通して見た。

 獣の目は色が視認出来ない。しかし、例え色が視認出来なくてもその顔かたちや身体の造形は変種が執着する者とはかなり違うのは分かった。一応女のようではあるが、獣のような尻尾や耳まである。エレオノーレ(殺人鬼)ではない。つまり別人である。

 変種は落胆した。これではない。この人物は根源(うらみ)に疼く己の内を解消させてくれるものでは決して無い。

 しかし、それはこの者をそのまま返すという理由にはならない。エレオノーレ(殺人鬼)は随分とこの獣人を大事に思っていたようである。果たしてこの者をかのエレオノーレ(化け物)の前で溶かし啜れば一体どういう反応を見せてくれるのか、という考えに至り、おもむろに足首を触手で掴んでみた。白煙が上がり、見る間に白い骨が覗く、だが僅かに身体を震えさせただけで大した反応はない。

 疑問を浮かべながらも足首から下を包み込んで溶かし啜り、万が一にも逃げられなくしてからもう一度獣の目で獣人を見て、反応の薄さを理解した。

(なるほど――)

 その獣人は喉笛を食い千切られていた。分体には僅かに意思を持たせており、攻撃する意思を見せるものには襲い掛かるように仕組んである。この獣人はエレオノーレ(殺人鬼)を援護しようとして、獣に襲いかかられたのだろう。

 噛み千切る、というより抉り取られたような傷口からは鮮やかな桃色をした肉と、血液を吹き散らす管のような物が何本か見えている。その近くには気管があり、細い管に空気が通るか細い、まるで吹き損なった笛のような音を出していた。

 触手から酸を抜き、腹回りを掴んで持ち上げる。まだ心臓は動いているが弱々しい。しかし、息も出来ず、出血も夥しいこの状態で生きているのは流石生命力の強い獣人と言えた。

 だが、もはやその身体では何も出来る筈も無い。後はエレオノーレ(殺人鬼)の目の前で溶かし、啜ってやるだけである。

 足から徐々に取り込んでやろうと一気に持ち上げ、そして、

(――!?)

 獣人の底力を見た。

 力強く掲げられた左腕には無数の風精が纏わりついている。

 その様はまるで狂乱だ。縦横無尽に飛び回り、何言か分からぬものを叫びながら寄り集まって、小山ほどもある変種を容易く両断出来そうな、極厚で薄く研ぎ澄まされた鋭利な風の刃を形成する。

 エルフが扱う戦術に負けず劣らずのその風刃はまともに当たれば両断は必須だ。存在の消失への怖気を齎すその刃。それを宿すリンゼの左腕が振るわれて、

「っ!?」

 弾け飛ぶように風刃が消え失せた。同時、精霊達も迫りくる見えない壁に衝突しているかのように吹き飛んでいく。

 何故、と碌に力の入らぬ身で視界を回し、そして、一匹の獣が球形の黒石を体内から覗かせているのを見た。効果範囲は狭いが一定の空間内の精霊を排除し、行使中の神術を無効化する道具。

(霊排石……!)

 何故それがここにあるのか、とリンゼは一瞬考え、直ぐに左腕に走った激痛で思考が散る。見れば、樹木に寄生する蔦のように腕に触手が纏わりついていて、

「―――――!!」

 筋肉が断裂する音、骨がささくれ立ち、可動域を超えて関節から外れる音が聞こえて直ぐに力任せに捻り切られた。

 喉を潰されているために声は出ない。しかし、大量の脂汗や大口を開けた苦悶の表情、突っ張った四肢や、それらが激痛で痙攣している事から音に聞こえなくても見れば一目で分かる。

 白煙を上げる左腕が宙に放り投げられたのをリンゼは涙に滲む視界で見た。反射的にそちらに右手を遣り、掴もうとする。

 しかし、拘束されている身が薮の向こうに落ちた腕を掴める筈も無く、変種の身体に引き寄せられ、ゆっくりと酸の身体に沈んでいく。

 もはや痛みは殆どなかった。視界が霞みかかっているのと関係しているのだろうかと希薄な思考でリンゼは思う。

 希薄と言えば感覚もおかしい。身体の各所、負傷した部分は湯に浸かっているような熱い感覚はあるが、痛みはもうあまりなく、激痛は急激に引いて今では疼き程度の鈍痛だ。

 酸に浸かっている膝下は熱い感覚に加え、何かが内に入ってくるような侵食の気配はあり、おぞましさから抜け出そうとするも身体の動きはひどく鈍い。引き寄せようとしても僅かに動くだけである。記憶の中にある己の動きと全く違う。

 侵食箇所が膝上を越えた。白煙を上げながら取り込まれていく。まだこの時点では抵抗する気力はあった。とは言っても、既に赤子の方がまだマシ、という程度の力しか出せぬものでもあったが。

 下腹部に差し掛かったとき、リンゼはもはや抵抗していなかった。

 出来なかったというのが正しい。もはや指一本すら動かせぬ程には弱りきっていた。

 下半身をほぼ失い、かつ喉笛を抉り取られている状況でまだ息がある、というのは獣人の中でも稀有だがここまで来ると既にどのような傷薬でも癒せはしない。そもそも溶かされた事で負った傷は始末が悪い。単純に肉を失っただけならば再生は可能だが、手指でも四肢でも溶け落ちれば再生は不可能だ。

 切断されたならば、その切断された部位と傷口を一片のズレなく押さえ、上等な傷薬を掛けるか飲むかで元通りに動く可能性は低いものの接合は可能ではある。だが受けた傷は全て溶解系のものだ。抉り取られた喉笛も獣の腹に収まっており、リンゼが失った部位で返ってくるものは一つもない。

 視界はもう闇の中だ。僅かな光さえ差し込む事は無い。聴覚はまだ生きてはいるが変種が出す粘つく蠕動音と、己が溶ける音しか聞こえてこない。

 内から感じる心音はか細く、鼓動に至ってはまだ動いているのかどうか判別し辛いほどに弱弱しく、

(もう駄目だなー……)

 他人事(ひとごと)のようにそう思った。

 どう事が上手く動いても助かるヴィジョンが見えない、とリンゼは思う。再生薬とも称えられるエレオノーレの傷薬を飲んだところでもはや失った血肉は帰って来ない。例え肉が戻ったとしても血は戻らない。傷が塞がっても下半身を失っていてはその先にあるのは幾つかの臓器の不備による緩やかな死である。

 今こうしてまだ思考出来ている理由は単なる偶然だ。そう遠くない内に死ぬ事は確定している。

 下半身(した)の捕食はまだ続いており、いずれ上半身(うえ)も飲まれるだろう。残り僅かな時間の中、何も見えない闇の中に色とりどりの思い出が走っていく。

 最後まで冒険者になることを反対していた父母。泣いて離れるのを拒んだ弟、妹達。応援してくれた友人。

 草木も眠り、宵闇の夜空に銀砂をぶちまけたかのような星々が輝く頃、集落の首長が祝福をくれた事。

 朝日が差す頃、住んでいた集落から遠ざかり、心細さに泣いてしまった事。

 初めて出た集落の外は面白いものが山のようにあったが危険も大量にあった。

 集落から一番近い街の途中で狼に襲われた事。

 這う這うの体で街に着けば路銀をスられた事。

 ヴァーレに来る途中の馬車で乗り合わせた商人に騙されて残り少ない路銀を取られた事。

 着いた瞬間に空腹で倒れた事。

 親切な人に拾われ、一命を取り留めた事。

 金が無く、ギルドの簡易宿泊所で寝泊りして居た事。

 神術が使えない風変わりのエルフと友達になった事。

 努力が認められて銀糸になった事。

(ああ、そういえばエレオノーレに夕飯作るって約束してたっけ……)

 走馬灯のようなその流れの中、親友との約束を思い出した。

 新品のカタナを買ったせいで金が無い。そんな理由から夕飯をご馳走してくれる事になり、そのお詫びにそれを作る約束をした。

 エレオノーレは普段何を食べているのかという勢いでリンゼの作ったものを美味しい美味しいと褒めちぎる。故郷で母と一緒に料理を作っていただけはあってリンゼは料理が得意だ。ただそれはレパートリーが多いという意味で決して工夫を凝らしているわけではない。

 そんな彼女の料理を欠食エルフ(エレオノーレ)は満面の笑顔で食べる。そんなに食べる方ではないらしい彼女が三人前は余裕で食べるのだ。作る側としては非常に嬉しい。

(そういえば――)

 食事が終わり、小魚の揚げ物をつまみとして酒を飲んでいた時だ。酒のせいかテンションが上がったエレオノーレが言った事がある。まだ彼女の身体について何も知らない時。度数が三桁の酒をラッパ飲みしながら上機嫌に、

『私、今ヴァーレ(この街)で一番強いんですよぉ!』

『アンタが……? あはははは! 酔っ払ってるぅ!』

『嘘じゃないですってばぁ! 今はお師匠様いないですしぃ……。リンゼが危なくなった時はぁ、私が助けにいってあげますよぉ?』

 嗅ぐだけで酔っ払いそうな酒臭い息を吐きながらそんな言をのたまったのではいはいと聞き流しながら酒を追加投入してエレオノーレを酔い潰してやった。エレオノーレの方が一歳だけとはいえ年上なのにその姿に駄々をこねる妹や弟を思い出すのは存外子供っぽいせいだろうか。

(エレオノーレ、大丈夫かなぁ……)

 逃げてくれていたらいいな、と思う。彼女とこの変種が戦うにしても相性が最悪だ。スライムですら戦うのに神術か大質量の射撃武器がいる。触れる事すらままならぬ変種(これ)相手にエレオノーレが戦う術などない。

 もはや死に行くだけの身に助ける価値などありはしない。リンゼは道連れは好まない。だから思うのだ。見捨てて欲しいと。友達が己のせいで傷つく事は我慢ならない。

 言葉が出せたら良かった。指一本でも動かせたら良かった。きっと来るであろうエレオノーレに己の意思を示したい。

 逃げて。

 その一言だけを声高らかに。

 しかしもはやそれは叶わぬ事であり、思考も希薄を超えて曖昧な、言語として形を成さない何かになりつつある。

(しにたくないなぁ……―――)

 その思考を最期にリンゼは息絶えた。

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