13 ※
「あ、街が見えてきましたよ」
大跳躍を続けるエレオノーレの視界に人工の明かりが見え始めた。まだ跳躍の頂点に至らねば見えぬ程には遠いが今の速度を維持すれば四半刻も経たぬ内に着くだろう。
「お風呂……」
リンゼが非常にか細い声で呟いた。虚ろな目はどこを見ているのか分からない。
また、リンゼの身体からは生臭さと饐えたような臭いが漂っていた。己が吐いた吐瀉物を滝のように浴びたせいである。単純な浴びた量なら抱き抱えているエレオノーレの方が多いのだが、リンゼは吐瀉物が顔面に返ってきた事もあり、半ば精神が死んでいた。
「ご飯……」
しかし、それでも食欲はあるらしい。吐いた吐瀉物に固形のものはなく、全てが胃液であった。一昼夜食べていないのだから当然といえばそうなのだが臭い的によろしくないものに塗れた状態で食い気を主張するのは流石に如何なものかとエレオノーレも思う。
「私もお腹減りましたねぇ……」
そう思いつつエレオノーレも空腹を主張する。彼女も朝に屋台で買った串焼きを幾本か食べたっきりで昼食は食べていない。しかし、このまま街に到着しても二人は何も食べられない可能性が高い。何故ならば、
「お金がありませんねぇ……」
まさかこんな事になるとは思っていないため、エレオノーレは銅貨一枚も持ってきてはいない。リンゼも多少の金銭は持っていたようだが武器や薬を取られた際に一緒に持っていかれたらしい。それら取られたものは果たしてどこにあるのかさっぱり分からないため、返ってくる可能性も低い。しかし、端た金銭よりも大事だったまだ一度も抜いていないカタナを取られた事を知った時、リンゼは口から魂が出てもおかしくないほどの自失っぷりであった。落ちていた金貨が詰まった袋の一つでも持ってきたら良かったとエレオノーレは僅かに後悔した。
「まぁお金の事は着いてから考えましょうか」
「お風呂……ご飯……」
それしか言わなくなったリンゼに苦笑しながらエレオノーレは街への残りの距離のスパートを掛けようとして、
「ぅっあッ!?」
「あにゃん!?」
着地した左足を地面から飛び出してきた何かに絡め取られた。体重移動を阻害され、つんのめるように身が前に倒れこみ、エレオノーレのお姫様抱っこから放り出されたリンゼが地面を二転三転する。
エレオノーレが何事かと状況を理解し、体勢を立て直す前に絡め取られた左足に激痛が走った。それと同時に何かが蒸発するような音と肉が焼ける臭いが漂う。
己の左足に目を向ければ真紅の蔦のようなものが幾本も大地から突き出し、それがエレオノーレの足に巻き付き、白煙を上げながら溶かしている。
(まさか)
あの変種が追って来たのか、という思考をする前に身体が触手で持ち上げられ、振り回される。
ここは左右を森に挟まれた山道だ。森というからには当然木々があり、坂の傾斜があり、中にはちょっとした岩の段差もある。また、山道は整備されているとはいえ石畳。森の中は手付かずの原生そのままの大小様々な石や倒木などが転がっている地面だ。
振り回され、それらに一切の遠慮なく叩きつけられる。
真紅の触手はさながらフレイルのようにエレオノーレを縦横無尽に振り回し、木々に、岩壁に、大石に叩き付けていく。
エレオノーレが着ている防寒具や衣服が擦れ千切れ、アイテムポーチに収納している各種の薬瓶が割れ、四肢に装着しているスローイングダガーが散らばり、周囲の地面に突き刺さっていく。
「エル!」
体勢を立て直したリンゼが状況を理解し、腰の武器を抜こうとして、
「――そうだった……!」
己の武器は無い事に気付く。舌打ちし、もう一つの武器を解き放つ。
リンゼを含めた獣人全般はそれは苦手とし、基本的に武器と己の肉体に頼る。獣人には最後の切り札として生まれ持った爪牙があるがこのような相手には無力だ。
故に、
「風戦術……!」
己の魂を削り、風の神術を発動する。魂を削った事により、胸の内から空虚感が溢れ、広がってゆく。
胸の内側が空っぽになるようなその感覚。あるべき場所にあるべき物がないような、まるで心臓を抜き取られでもしているような感覚。
しかしそれは一瞬だ。削った魂から命力を精製し、白の燐光と化したそれをリンゼの意思を受けて近くに集まっていた風精に術の形を思いながら渡せば、
「叩き斬れッ!」
心臓の鼓動を大きくしたような、物理的な音ではなく、心に直接響くような精霊の歓喜の気配と共に、命力に込められた術者の思念を受け取った風精が弧の形をした風の刃を放った。
風刃の行く先は地面から生えている触手の根元だ。振り回されているエレオノーレを狙えば外れる可能性もあるし、なにより彼女に当たる危険性がある。ただの人間より遥かに頑強なエレオノーレだが流石に神術に当たっては無事では済まないとリンゼは思う。
また、猫の獣人に加護を与えてくれる精霊は風精と闇精だ。加護を受けた術は威力が跳ね上がる。如何に獣人が神術が不得手な種族であろうとも加護が乗った戦術はどんな種族でも無視は出来ない。
茎が太く硬い草花を断ち切るような、粘液とは思えぬ断裂音を立てて風刃が触手を切り裂いた。エレオノーレが振り回される勢いのまま放り出され、触手を振り払いながら空中で身を捻って体勢を立て直し、リンゼから二足ほど後ろに下がったところに足から着地する。
「ありがとうリンゼ。助かりました」
微笑みながら言われ、
「ん」
リンゼも笑いながら短く返した。
派手に叩きつけられていたがリンゼが一見した感じでは攻撃の影響で衣服が擦り切れただけで大したダメージは受けていない。被害といえば砕かれ、散らばった装備群だけだろうか
。
(羨ましい身体よね)
と再度思う。
そう思うと同時、肉が焼けるような異臭と新鮮な血の臭いをエレオノーレの下部から嗅いで感知した。強酸を持つと思われる変種に掴まれていたのだから当然かとも思い、具合を見ようと見て、
「ってうわ! 足が凄い事になってるんだけど!?」
既に足の傷は表皮を焼き溶かしてその下の筋肉にまで及んでいた。触手が直接触れていたところは既に陥没しているかのように抉れており、もう少し進めば骨に行き当たるだろう。
また、傷の周辺は触れていないにも関わらず紫色に爛れ、ぐずぐずに崩れて血を噴出していた。まるで毒を打ち込まれたようだとリンゼは思う。左足の膝から下は早急に薬を飲まなければもう使い物にならないはずだ。――常人ならば。
「まぁこれぐらいならすぐに治りますよ」
白の燐光を漂わせつつ、そんなことを言っている間にもみるみるうちに傷が、
「あっ……? うっそ……凄い……!」
紫色に爛れていた場所が白く、淡く光りながら時を撒き戻しているかのように身の内から肉を盛り上げて元の肌色に戻っていく。淡い輝きが治まれば既にそこは血の一滴すらないエルフの美しい御足だ。
陥没していたところは僅かに回復が遅かったものの、それも瞬き一回ほどの差があるかないか。凄い、とリンゼはただそれだけしか言葉に出来ない。街に向かう最中、まだ馬が健在だった頃、戦闘の際にエレオノーレが纏っていた白光についてリンゼはその奇跡の術の名称を聞いている。
「それが命術? ってやつなの?」
「正しくは命術の二つの効果の内の一つですね。あらゆる傷が高速で治ります。心臓を剣で貫かれる程度なら平気ですよ」
命術の二つの特徴の内の一つ。高速治癒。受けた傷を癒し、傷一つ残さないほどに回復させる能力。己や他者の傷を回復させる治癒の神術という物がないこの世に置いて、エレオノーレの命術は自分限定という制約がありながら自己回復を可能とさせていた。
「ふにゃ~……なんというか、本当凄いもんね」
心臓を剣で貫かれたら普通即死ではないかとリンゼは思うが何分貫かれた事がないので分からない。あっという間に意識が落ちる、というわけではないのだろうか。しかもエレオノーレの口ぶりからすると一度心臓を剣で貫かれるあったように思える。
(エルは昔、何をしていたのやら)
そんな事を思っていると森の中からこちらを囲むように動物達が爛々と目を光らせていることに気付く。
しかしそれは異質なものだ。相手がこちらの捕食を目的とした肉食、雑食性の動物、もしくは脅威を枝葉の影から窺う草食性の動物にしても呼吸や僅かな動きに伴う草の揺れなどと言った生命の気配がない。先ほどまで山から凍える風が吹き降ろしていたが今は無風で周囲に何も音を立てるものもなく、故にエレオノーレのような人並み外れた聴覚を持っていなくても獣人ならそれらの音は問題なく聞こえる。只の人間であっても耳を澄まし、集中すれば聞こえる筈なのだ。
「ねぇ、エル」
「えぇ、なんか変なのに囲まれてますね」
狼、猪、熊、狐、鳥。その他、ここの山に住む動物が微動だにせず二人を見ている。
微動だにせず、である。動物なら必ずしている筈の呼吸すらしていないのである。しかしその目の輝きは既に死んだ虚ろな目ではなく、生の輝きがあった。
「生きている剥製みたいですね」
「死んでるのか生きてるのかさっぱり分からないんだけど。んで、どうする?」
「ん~、少し確かめたい事がありますので」
言うやいなや、リンゼの腰に手を回して持ち上げ、左の小脇に抱え
「また逃げましょう」
加速の構えを取り、
「ちょっ、まっ! 安全運転してよぉおぉぉぉぉ!?」
石畳を踏み砕きながら疾走を開始する。
一切の加減をしていない全力疾走だ。既に身の疲労は無視出来ぬほどにあり、それのせいで身体も硬くなって速度も落ちている。音を置いていくような速度は出せないがまだそれなりの速度で走ることは出来た。
リンゼが風圧で面白い顔になっているのを横目で見つつ左右を見る。
(……へぇ、ついてきますか)
獣達が二人を見つめたまま並走していた。
エレオノーレの身体に疲労があるとはいえ、その速度についてくることが出来る生き物など両手で足りる。そしてそれらの殆どは魔獣や魔物だ。ヴァーレの周囲にそれらは居らず、ましてやただの獣がエレオノーレと並走することなど断じてありえない。その筈なのだが、
(一目見たときからおかしいとは思っていましたが)
並走する獣たちの足を見て、
(死体に近い感じですね……)
獣達が己の出す速度に耐え切れず、足や関節、その周りの部位を自傷させていた。それも筋肉が断裂し、骨が折れて体外に飛び出すものだ。
そうなってしまえば物理的に走れなくなる。精神論で何とか出来る範囲などとうに超えている段階だ。傷薬を使うにしても折れた骨を体内に戻すという想像するのも痛々しい一手間がある。大体の者はそこで心が折れるような激痛があるのだが、
(痛覚がないんでしょうか……)
獣達は痛がる素振りなど見せずに、むしろ怪我などしていないかのように走り続けており、やはりその硝子玉のような無機質な目は、輝きだけは爛々と二人を見続けていた。
(振り切るのは無理そうですね)
そう判断して地に足を打ちつけて石畳を抉りながら急停止した。
「おろろろろろ」
リンゼが面白い音を出しながら再び嘔吐しているがそれを無視して周囲を睥睨すると獣達が森の中から出てきて二人を囲む。
枝葉に遮られなくなり、月明かりに照らされたそれらは既に死に体に近い有様だ。だがその身体が揺らめく事はなく、しっかりと足で大地を踏み締めて立っている。
一本の足が使えなくなっても残りで身体を支えているようなわけではない。折れた足で立っているのだ。
体を支える骨が無いのにどうやって立っているのか。例えるなら家屋の柱を抜いて壁だけで構成されているようなものだ。眉根を寄せて観察していると、
(なるほど、筋肉だけで……)
足回りの皮膚が外見からでも分かるほどに異常に張り、硬く緊張している。どうやら筋肉だけで立っているらしい。だがしかし、そんな事が野を駆ける獣に出来よう筈もない。
厳密に言えば骨が無く、全身が強靭な筋肉だけで構成されているような生物もいるが、そんな生物は主に海中にいる。山中にいるような生き物では決して無い。陸に住む一部の魔物はそのような身体を持っているものもいるがそれはこの山を縄張りにしてはいない。
「一体なんなんでしょうかねぇ……」
呟いてみても返ってくるのはリンゼが胃液を撒き散らす音だけだ。
(一当てしてみますか)
右の太股のシースベルトからスローイングダガーを一本取り出し、投擲する。それは眼前にいる猪の眉間に吸い込まれるように突き刺さった。
「ふむ」
しかし、即死であるはずなのに倒れる気配を見せない。その事は何となく分かってはいたが避ける動作すらないのは一体どういうことか。
また、スローイングダガーで付けたものに限らず傷口をよく見れば噴出すような出血がない。動作や重力に伴う血液の零れや滲み出るようなものはあるが心臓の拍動に伴うものはなく、
(死体に近い、というより死体そのものと思った方が良さそうですね……)
エレオノーレはそう結論付けた。
死体との戦い方はエレオノーレも分かるものではない。活動の意思を発するのが脳だとして、今し方その脳をスローイングダガーで破壊したばかりだ。
(もっと粉微塵にしなければ駄目なんでしょうか)
そうだとすると少々面倒だ。だが相手は少々異常とは言え、その耐久力は只の獣のようである。エレオノーレの速度に耐え切れず自傷するような強度しか持たぬその身が岩をも砕くエレオノーレの膂力に耐えられる筈も無い。
猪に向かって低い軌道を描きながら一足で跳ぶ。命術は発動しっ放しだ。それでなくても獣程度の強度しか持たぬものなら素手でばらばらに引き裂く事もできる。
猪に対する行動は右足による頭への踏み付けだ。分かりやすく、単純な攻撃でありながらそれは必殺の威力。たとえリンゼがやったとしても相手へそれなりのダメージを与える事が出来るだろう。エレオノーレが明確な敵意を持ってやるそれは命中箇所を挽肉にするのと同義である。
猪が爛々とした胡乱な、矛盾する視線をエレオノーレにやり、
「―――」
最後の最後まで避ける事すらせずに頭を踏み砕かれた。血に濡れた頭蓋骨の破片や、潰れた脳味噌が周囲に散らばり、跳ねた僅かばかりのそれらがエレオノーレとリンゼに返る。
「……?」
その直後、最初に疑問に思ったのはエレオノーレだ。
踏んだ右足や返り血を浴びた箇所に思わず眉根を寄せるような焼け付く痛みが走る。何かが蒸発するような音と白煙が同箇所から上がって、気付く。
「酸……!?」
「うあぁああああああ!!」
「リンゼ!?」
脇からの悲鳴に見ればリンゼが左目を手で覆って苦悶の声を上げていた。指の隙間からは白煙が上がり、血液とどろどろの何かが零れ落ちている。
(酸が目に……!)
顔全体に浴びた、というわけではないのは僥倖ではあったがそれでも目が溶かされるという痛みと恐怖は想像を絶する。経験した者にしか分からない痛みだ。
「リンゼ! 水の神術で洗い流して下さい!」
もはや目の機能は失われているだろう。だが、目が完全に溶け落ちていない今ならまだ適切な処置をして傷薬を使えば回復は出来る。
エレオノーレのその言葉にリンゼが痛みを堪え、水の神術を発動させようとして、
「っあ……!」
再びエレオノーレが地面から生え出た触手に捕縛され、振り回される。
触手が巻き付いた箇所は胴回りだ。只の人間なら容易く絞め潰せるような恐ろしい力自体はエレオノーレは苦にはしないが、強酸で焼かれ続ければ胴体が分断されてしまう。
胴体と地面の間の触手を右の逆手で抜いた採取刀で切り上げる。だが、まるで見えているかのように触手がその身を歪ませ、斬撃を回避した。幾度か振り回すが、掠るだけだ。宙に浮くその身が安定しないこともあり、中々切断には至らない。
やがて絞め付けられている箇所が何ともいえぬ侵食のおぞましさを持つようになってきた。生理的な嫌悪感を伴うそれが知らせるのは、触手がもう少し経てば内臓に届いてしまうだろう事だ。そうなってしまえば臓器が体外に零れるので流石に派手な動きは出来なくなる。一度零れた臓器を無事、元の位置に収めるのは中々に面倒である。
(最初からこっちを切れば……!)
腹回りに撒きついていた触手を、胴体との間に採取刀を滑らせて切断。捕縛を脱出し、着地して、
「ぐっ!」
真後ろから自傷を厭わぬ熊のぶちかましを食らった。未だ抱えているリンゼと共に石畳の上を二転三転、大地に拳を打ち付けてその反動で加速跳躍し、片膝立ちの体勢で立て直す。
真正面から再び四足で走る熊のぶちかましが来たので採取刀によるカウンターの突きを眉間に放って、とある可能性に思い至る。
(もしかしてこの熊にも酸が……!)
しかし、もう引っ込めるには遅い。
採取刀を握った腕が柄ごと熊の頭を砕きながら飲み込まれ、焼けて白煙を上げる。やっぱり、と思いながら酸が掛からぬようにリンゼを近くの茂みの中に放り投げて熊のぶちかましを受け、
「せやぁッ!」
吹き飛ぶ身を熊の両腕を掴む事によって制御し、押し倒されながら腹に足を入れてそのまま蹴り上げれば巴投げになる。
放り投げた。
幾つもの木々や枝葉を巻き込み、へし折りながら巨躯の熊が飛んでいく。落着を見ずに頭の両横に手を突き、膝を己の胸へ着くほどに曲げて戻すと同時、手で上半身を押し出して勢い良く跳ねるように身を起こす。
「リンゼ!」
放り込んだ茂みに声を掛けつつ駆け寄り、しかし、
「リンゼ! どこです!? リンゼ!」
確かにこの茂みに放り込んだ筈のリンゼの姿がない。あるのはまるで喉笛を引き裂いたかの如き夥しい血痕と、何か大きなものが引き摺られたような痕跡と地面が引っかかれたような痕だ。
その血の量は酸による傷とは思えず、新たな外傷をリンゼが受けた事を意味している。そして地面についたその抉れはまるで連れ去られ行く者が五指を大地に突き立てて必死に抵抗し、踏ん張ろうとしたそれだ。
また、血痕はその爪痕に付随しており、そしてそれは森の奥へ消えていた。エレオノーレの顔が何年振りかに青くなる。
再びぶちかましを仕掛けてきた野獣の攻勢を横っ腹に思いっきり食らいながらその勢いを利用して再び走り出す。
もはや己を攻撃するものにも目もくれぬ全力疾走だった。
再び音を置いていく速度を出してエレオノーレが疾走する。