11 ※
「リンゼ? もう大丈夫ですよ」
「ぅひぃ!」
馬車の昇降口に足を掛け、内部に入らず声を掛ければ震えた声が返って来た。
声にはじわりと滲むような恐怖の色がある。やっぱり見てましたか、とエレオノーレは心中で苦笑した。
「にゃ、ぁ。ああ、える、エルね。うん。何が終わったって? 何かしてたっけ?」
ついでに恐慌も起こしているようだ。寝かせておいた方がよかったかもしれませんね、とエレオノーレは僅かながらそう思う。
「入りますね」
「ぁゎわわ……!」
未だ昇降口に陣取る弓を持った少年の死体、その首根っこを掴んで軽い素振りで投げ飛ばし、エレオノーレは幌を除けて馬車の内部へ足を進めようとして、
「っと」
半身ほどを上がったところで唐突に突き出された刃を、顔を傾けて避けた。差し出された刃、スローイングダガーの刀身を左の素手で掴み、動きを制して事も無げにそう言う。
「危ないですね、刺さったらどうするんです?」
そこでエレオノーレは相手の顔を見て、
「……あなた誰です?」
スローイングダガーを握っている膝立ちの男を見てエレオオーレは不審で眉を寄せる。
茶色の長髪を背で一つ結びにした軽薄そうな男。今は何に集中しているのか随分と真剣な顔をしているが彼女の知り合いにこんな男はいない。
それにこのダガーはリンゼに自衛用として貸し与えたものだ。何故見知らぬ男が持っているのか理由は知らないが、もしかするとリンゼから奪った物なのかも知れないと思うと不愉快な気分になり、
「なんだかよく分かりませんが」
男がスローイングダガーを引こうとし、髪の毛一本ほども動かない事に驚きを顔に表す。しかしそれも一瞬だ。動かないと分かるやエレオノーレの顔目掛けて左足の蹴りを横薙ぎ気味に繰り出した。困惑に目尻を下げつつ一連の動きを見た後、事も無げにスローイングダガーを握り砕き、相手の喉目掛けて右の貫き手を高速で放った。
「とりあえず殺しておきますね」
「わー! 待った待った!」
無事だったらしいリンゼのその声に一応動きを止めておく。貫き手を五指を開いた防御の形にして蹴りを受け止め、いつでも脛を握り潰せるようにホールドしつつ視線を巡らし、まず見知らぬ女とリンゼを、次にその二人を後ろに庇う、やはりこれも見知らぬ男二人を見て
「で、なんなんです貴方達は?」
睨み付ける様にやや剣呑に問う。返答次第では捻り殺すぞ、という意思がありありと見て取れる。左手で昇降口に掛けたままの同足の脛に巻き付けてあるベルトシースから何時でも投擲出来る様にスローイングダガーを半ばまで抜いた。
「あああああ! この人たちはあたしの依頼主だって! ほら、今朝話したじゃん!?」
リンゼが慌てて紹介をする。一瞬だけそちらに目をやってからエレオノーレは様子を変えることなく補足した。
「リンゼ、それは昨日です。眠っていたから分からないのでしょうが貴女が攫われてからもう丸一日経っていますよ」
「マジで!?」
「マジです。早く帰りましょう」
エレオノーレがリンゼに手を差し出す。払ったとはいえ、血に濡れている手だ。リンゼはその手を取るのに逡巡し、
「お待ち下さい」
女の声で制止が掛かった。
女というよりかは子供で、金の髪を持った白皙の少女だ。顔立ちは整っており、温室で寒さを知らず育ち、美しく開花した花が目に止まるのと同じように人の目を惹き付けるだろう。エレオノーレと同じ色をした眼差しは理知的だ。縁に銀糸で蔓草を模ったフードマントを羽織っている。質のいい鈴のような細く透き通った儚い声からは敵意は窺えない。
「連れの者が早とちりをしたようです。いきなり刃を向けて申し訳ございません。どうかその手を離して頂けませんか?」
「早とちり、ねぇ……。いきなり切りかかってきた理由を聞いても?」
半眼で少女、ヴィラを見る。
(勘違いがあっても普通は相手をいきなり殺そうとする輩はいないですよね普通……)
などとエレオノーレは己を棚に上げて思う。
「その、大変申し上げ難いのですが……貴女が魔物ではないかと疑ってしまいまして……。リンゼさんが知っている風な素振りを見せてはいたものの外の、凄惨な光景を見たせいなのか呆然自失のようでお答えが貰えず……連れの者が先手必勝だとリンゼさんから刃物を取り上げて……」
少女の声は時折上擦ったような調子になりながらも賢明に事情を説明する。よくよく見れば足が震えていた。腹の前で組んだ両手は怯えの表れとしての無意識の防御か。
青白い顔は吐き気を催す光景を見たゆえか、はたまた命の危機に陥っているせいか。エレオノーレに判別は出来ない。する気もなかった。自衛の為と理由は分かったので抜き掛けていたスローイングダガーから手を離し、尚且つ両手の平を相手に向けて既に害意を持っていない事を示す。
「私はれっきとしたエルフです。魔物ではありませんよ」
「エル、フ……? しかし戦う際に神術の気配は無かったのだが……?」
ヴィラを庇うように立っている筋肉質な男、ロウェルが訝しげに問う。エルフという種族が戦闘する際には必ず神術があり、また、それの発動に伴う命力を渡された精霊の歓喜の気配もなかった。神術を使っていないのならば肉体の基礎能力だけで相手の頭を砕いたり高空からの着地を耐えたり、一瞬で視界から消えるほどの高速移動が出来るということになる。そんな事は速度や腕力特化型の獣人でも難しい。故に魔物と勘違いしたのだが、
「私は神術を使えませんので」
その返答で理解する。が、理解はするものの、何故神術を使えないのか、その超人のような肉体はどういった理屈なのかという疑問が湧き、
(答えは貰えんようだな)
上げた両手を下ろし、両肘を逆の手で持つようにしたエレオノーレからは問答そのものが煩わしい気配を漂わせていた。既にその翠眼はリンゼの方へ向いている。見掛けによらず短気である、とロウェルは結論を出した。こちらが仕掛けた事とはいえ先ほど躊躇無くリルトを殺害しようとした事もある。これ以上引き止めれば力の矛先がこちらに向くかも知れぬと思い、
「お嬢様」
短くそう言えば、
「はい」
込められた意味を正確に理解した小さな声が返ってくる。
「私達はこれでお暇いたします。危ないところを助けて頂き感謝致します。今はまだ出来ませんがこのお礼は国に帰ってから必ず」
「そうですか。馬車は乗っていって構いませんよ。足が無くては困るでしょう」
「しかし、それでは貴女方はどうするのですか?」
「走って帰ります」
差し出した己の手を掴むのを躊躇するリンゼの手を無理矢理掴んで引き寄せ、身を回させて両膝の下に手を入れ、肩を抱いて横抱きの姿勢にした。所謂お姫様抱っこである。エレオノーレとしては走るのに一切の邪魔にならず、抱えられている側のリンゼにも負担が殆ど掛からない理想の形ではあるが、顔を真っ赤にしたリンゼから猛烈な文句が出たので渋々小脇に抱える。何故かこの抱き方も文句が出たが。
「走って、ですか……。一緒に乗らないのですか?」
「私は私を心の底から怖がる人と一緒に行動しません。裏切られますから」
過去の経験からエレオノーレはそう言う。リンゼも怖がってはいるが恐怖の理由はどちらかというと血液や臓物、凄惨な死体を大量に見た恐慌のせいだ。現在それから立ち直りつつあるリンゼはエレオノーレに付着した血や肉片に悲鳴を上げてはいるものの彼女自身に震えてはいない。
しかし、怯え、震えてエレオノーレを忌避する者とは絶対に行動を共にしない。修行時代にそういった者たちとちょっとした経緯から組んだが背後から殴られ、切り付けられたからだ。怒り狂ったエレオノーレに皆殺しにされたが。
「……申し訳ありません」
怯えを肯定する発言にエレオノーレは気にするなとでもいうように手を振って背を向ける。ついでに足元に転がっていた抜き身の剣を二つと、金貨の袋と思しきものを一つ蹴り上げてロウェルとリルトに柄が先に行くように放り投げた。
「どこに帰るか知りませんが道中丸腰では困る事もあるでしょう。リンゼを守ろうとしてくれた御礼です」
その言葉に三人が両手を胸の前に組み、片膝を突いて頭を垂れる。深い感謝を表す動作だ。護衛の二人はともかく、恐らくは貴族と思われるヴィラが頭を下げるのが意外だった。気位はそんなに高くないらしい。
(どこの国の感謝の仕方でしたかねぇ……見たことはあるんですが)
そんな事を思っている間に三人は近くの木に括り付けていた馬に乗ると山を登っていった。一度この近辺で一番近い街である山頂の街へ行き、休んでからヴァーレに行くか国へ帰るかするのだろう。エレオノーレもとりあえずそこで休んでから帰ろうと思っていたので再会は意外と早いものになりそうである。
エレオノーレから脱し、これ幸いと疲弊してはいるものの余った馬に乗ってはしゃぐリンゼに苦笑しつつ死んでいる男達から出来るだけ綺麗なものを選んで防寒具を剥ぎ取る。エレオノーレの足はどんな馬より早いが乗馬は始めてらしいリンゼから馬を取り上げるのは少し可哀想である。勿論エレオノーレにも疲労はあり、本音を言えば走りたくはなかった。なので帰り道はゆっくりとした物になりそうである。
「リンゼ、帰りましょう」
「そうね……エル、ありがとうね。この恩は絶対忘れないわ」
「そうですか。その言葉、絶対忘れないで下さいね?」
「なにさせる気なのよ……」
エレオノーレ達が去って数分後、それはずるりと動き出した。
零れ落ちる脳を気にもせず、顔面を蹴り潰されて飛んだ上の頭を置き去りにして、眼球は既に無いのに確かに目標へと辿り着き、食らう。
既に人の温かみはない、かつての仲間だった死体を食らい、周囲に零れた臓物や血液、武器や石くれを無節操に取り込み、肥大して、肥大し続けて、十二分に成長し、泡立つような音を立て、移動を始めた。――山の方へと。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それに一番最初に気付いたのはやはりというべきか当然というべきか、エレオノーレだった。
粘性を伴った何かが地を這いずっている音だ。だがその音は遠く、更に道の両隣にある森林、その葉鳴りの音で掻き消されており、正確な位置の判別は難しい。
「ん~?」
「どうかしたの?」
騎乗したリンゼが防寒具に首まで隠しながら問う。己の唇に人差し指を当てて静かに、というジェスチャーをしながらエレオノーレは耳を澄ませた。
視界不良な場所や相手が視界に捉えられないときは音が生命線だ。リンゼが光の生術で前方を照らしてはいるがそれ以外の周囲は暗い。勿論木々の裏に何か隠れていても見透かす事は出来ない。故に音で判別する。
エルフの耳朶は横に長いが獣や獣人のような聴力はない。今彼女が聞いている音も、本来ならばエルフや人間には聞こえようもない音だ。だがエレオノーレの耳はそれを捉えていた。
防寒具として徴収したフードマントの中に手を入れ、耳に手の平を当てて音を集めながら周囲を伺う。
聞こえてはいるがまだ遠い。害は無さそうですね、とエレオノーレは判断して歩行を再開した。
「なんかいたの?」
「と思っていたのですが遠くて正体が分からないですね。放っておいても大丈夫そうです」
「ならいいけど。……にしても凄い身体よね。あたしでも聞こえないのに」
山に入ってすぐにリンゼはエレオノーレの身体の事について質問攻めにした。その結果、彼女の人外の能力を知る事になった。
大岩を持ち上げる怪力、刃が通らぬ鋼に等しい骨肉、音すら置いていく速度を出す足。五感も異常であり、目は光が一切無い暗所を見透かし、耳は雑踏の中の一人ひとりの呼吸の音まで細かく判別し、鼻は風呂の中に垂れた血の臭いを嗅ぎ取り、皮膚は紙に書かれた筆の髪の毛一本の厚みもない厚さを感知し、舌はどんな微量でも口に入れたものは識別出来る。
さすがにそこまで敏感だったら逆に生き辛いのではないかとリンゼは疑問に思ったが、
『あまり気にしない事と慣れれば問題ないですよ』
との事だ。また、更に強化出来るエレオノーレ限定の神術である命術、というものも使えるらしい。発動すると白の燐光が周囲に現れるので一目瞭然であり、それをリンゼは高空から着地した際のエレオノーレに見ている。なるほどあれかぁ、とリンゼは一人納得した。
「羨ましいなぁ」
そんな身体があればどんな危険にも怯えず立ち向かえる気がする。リンゼが生業の一つである遺跡の探索では正しくない箇所を歩くと矢玉が飛び交う罠や、針山が仕込まれた落とし穴などはよくある。矢の一本や二本は刺さった事はあるし落とし穴に落ちて腹を貫かれたこともある。矢傷は致命的な部分に刺さった事は無く、腹を貫いた針は奇跡的に細く、短かったので激痛はあったものの地に足を着けて直ぐに引き抜くことが出来た。
エレオノーレのような身体があればそのような危険に怯む事もないだろう。故に羨望するが、エレオノーレの苦笑に返された。
「あんまり良い物ではないですよ。確かに私は大概の事は大丈夫なんですが大事なものは守れませんから」
一瞬エレオノーレの意識が遠くに行ったのをリンゼは見た。まるで昔を思い出しているかのようだ。それも忌まわしい何かだ。言葉は出さず、それ以上を探ろうとして、しかし直ぐにエレオノーレが戻って来る。
忌まわしい記憶なら思い出させる事もないか、とリンゼは思い、違う話題を振ろうとした瞬間、近くで何か大きなものが落下するような音が聞こえた。
その音は飛沫に近いが粘っこいものも含んでいた。下生えや木々の枝葉が揺れ、まどろんでいた鳥や獣たちが騒ぎ立てる音が聞こえる。
エレオノーレがリンゼを庇うように前に出た。訝しげにしつつも二刀に逆手を掛ける。粘つくような、汚い音を識別してエレオノーレが言う。
「さっき聞こえた音の正体ですかね。音が近寄って来た感じは無かったですしもしかして飛んで来たんでしょうか」
「なんかぐちゃぐちゃべちょべちょ言ってるんですけどぉ!? もしかしてスライム? だとしたらちょっと面倒なんだけど……」
ローパーの上位種であるスライムはローパーと比べると更に強い強酸の身体を持つ。動きも素早く、本体自体の動きはたいした事はないがその触手は野を駆ける獣を捕らえる俊敏さも持ち合わせており、また、薄弱ではあるが意思があるので神術が使える。討伐を主とする冒険者なら銀糸になってから初めての壁になるだろう。打撃、斬撃、射撃はその透き通った強酸の身体には殆ど効果がなく、逆に飛沫で被害を受ける。スライムを倒すならば神術でその活動の意思を発する核を撃ち抜けば良いのだが、
「いえ、スライムでは無さそうですよ。音が大きすぎます。強酸は持っているようですが」
まだ目視は出来ないがエレオノーレの耳には青草や鳥、獣が強酸で溶け、焼け爛れるが聞こえている。それら獣の融解音や壮絶な悲鳴は一瞬で、直ぐ後には水面に石を投げ込んだような音を残して消える。
また、その悲鳴はリンゼにも聞こえていたようだ。顔を青くしながら闇の奥を見つめる。
「しかも少しずつこっちに近付いてるじゃん……。逃げた方が良さそうね」
「ですね。危うきには近寄らず。走りますよ」
疾走を開始する。しかし緩やかとはいえ、坂道である。歩く程度なら問題なかったものの元々疲弊していたリンゼが乗る馬はあっという間にばてて速度を落とした。
それでも距離は大分離している。音はもう聞こえなくなり、リンゼは下馬して歩く事にした。エレオノーレもそれに倣い、速度を落とす。
後ろを見て、追走されていないか確認し、安堵の吐息を吐いて、あれはなんだったんだろうね、とリンゼが口に出そうとして、
「っ!?」
いきなりエレオノーレに抱き抱えられた。しかもそれは跳躍のおまけつきだ。坂道を降りるコースを低い機動、且つ高速で跳び退った。
僅かに遅れて先ほどまでいた位置に粘着質な落着の音が響く。そこに居た馬が一瞬で飲まれ、蹴るように己を取り込んだ物体を破って突き出された後ろ足は既に溶け爛れており、わずかではあるが骨が見えていた。
馬の足も直ぐに見えなくなり、あとはそれが蠕動するような音だけが残される。
一度振り切った謎の音の正体には違いないのだがそれは二人が知るどんな生き物にも似付かない姿だ。
血のように真っ赤な巨大な粘液の塊。そうとしか表現出来ない。強酸や粘液の身体と言えばスライムだが、スライムは真っ赤ではなく、強酸の身体も核も透明だ。故に外見からは核の判別がつかないのが強敵たる理由である。
しかしこれは鮮血のような赤色をしており、スライムとは別の意味で核を捉える事が出来ない。またスライムはエレオノーレより少し大きい程度だがこれは完全に小山ほどある。縦も横もスライムの三倍以上はありそうであり、やはりそういう意味でもスライムと断じる事は出来ない。
「なにこれ……」
「さぁ……?」
二人が首を傾げる。しかし相手の正体が分かっていなくても一つだけ分かっている事がある。
それは二人を捕食する気満々ということだ。謎の粘液塊は触手を体表から生やして二人に襲い掛かった。