第三章 拡がる波紋1
私達は今とんでもない問題に直面している。
ギリシャに着き、空港から出るまでは順調だった。
何とか普段のテンションを取り戻した私は、勇輝君と空港に置いてある土産物何かを一通り見て回って、ギリシャに関する蘊蓄とか、ギリシャ神話に関する詳しい設定とかを聞いて感心したり、具体的な取材の仕方を聞かれたり、比較的楽しい気分で空港を出た。でもその途端、勇輝君の足が止まった。
最初はトイレにでも行きたいのかと思ったけど、それにしては様子がおかしかった。何かを我慢していると言うよりも、途方に暮れるような目で辺りを見回しているのだ。
嫌な予感がするけど、このまま放って置く訳にはいかない。私は恐る恐る尋ねた。
「ど、どうしたの?」
見返してきた勇輝君の目は……刑事のものでもなく、紳士のものでもなく、ただ……年相応のものに変わっていた。
「……僕らこれから、どうすればいいんでしょう?」
来たか……。正義を振りかざす日本の愚かものが、漆黒の闇へ足を踏み入れに……。
数年前の惨劇は、思った以上の成功だった。おかげで人の心に存在する闇を操ることが、如何に簡単なことであるかが分かった。一度やり方を覚えてしまえば、闇ある者ならば何者であっても容易く動かせる。
さて、そろそろ素敵な迎えが彼らの元に着く頃だ。最初の闇に君達はどう対処するのかな?
脱力。もしかしてと思ったけど、まさか本当にこれからどう動くかを決めていなかったなんて……。
「どうして指示を受けていないの!?」
「いえその……本当はもう一人、ベテランの刑事が来てくれる予定だったんですけど、飛行機が出てしまうので、そのまま……」
置いてきたというわけか……。要するに本来は二人旅なんておかしな捜査じゃなかったってことね。
けどまぁ、飛行機の時間に遅れて来る様な人間ってことだから、いたとしても大して役にたたなかった気もするけど。
…………ちょ〜っと待った。
「ねぇ、その人ってもしかして、四十代くらいの男の人?」
翠の脳裏には空港で会った謎のおじさんの顔が浮かんでいた。決して多くは語ってくれなかったけど、今回のヤマについて何か知っているみたいだったし、その可能性は高いはず!
「えっと……どんな人なのかについては、僕も全く聞いていないんです。ただ、神崎副総監から、とても頼りになる人を一緒に行かせるからって……」
それを聞いた瞬間、神崎達也の顔が浮かぶ……。
――――っ!
翠の頭で、一連の流れが一つに繋った。
なるほど……そう言うことか……。数年前の惨劇、特種刑事育成課の設立、黄宮勇輝君の派遣……同行予定だったのは、間違いなく……。
「! 翠さん、どいて!」
「え、ちょっ……」
何かと聞く前に、勇輝の腕が翠を押し退けていた。突然のことに対応できず、翠は危うくこけるところだった。勿論すぐに文句を言おうとしたのだが、勇輝の目を見た途端にそれが出来なくなった。
勇輝の目は今まで見たこともない程の殺気を帯びていた。翠を押し退けた手には、黒い鉄の塊……銃が握られていた。
「さっそく御出迎えらしいですよ。翠さん」
「えっ……」
恐る恐る銃口の向く方へ目を向ける。銃なんて代物は、相手がいないと使わない。当然のことながら、翠の目の前に勇輝と同じく銃を構える男がいた。
筋肉質な三十歳くらいの男の銃と華奢な勇輝の銃は、見事に銃口を向けあう形になっていた。
辺りを見渡せば、さっきまで羊の大群のようにひしめき合っていた人の濁流は、まるで空気中に溶け込んだかのように忽然と消えていた。でき過ぎた状況に、作為を感じる。
銃を向けあったまま、双方強烈な殺意を放っている。これまで周りを包み込むような暖かいイメージだった勇輝だが、その目を見ると、殺意に満ちた今こそが彼の本性なのではないかと思ってしまうほどに、その姿が馴染んで見える。
今まで勇輝を子供だと思っていた翠が、初めて彼に恐怖感を覚えた。
「良い反応だ。これなら彼も退屈しないだろう」
ギリシャ語で話している辺り、男は地元の人間らしい。勇輝は依然険しい表情で、男を睨み付けている。
「……翠さん、警察に連絡して下さい」
言葉は丁寧なまま……しかし、どこか逆らえない雰囲気がある。いや、あるのだが……。
「ね、ねぇ勇輝君」
「……?」
どうしました?と目を向ける。自分はただ警察への電話を頼んだだけだ。大人である彼女にできないような作業を頼んだつもりは無い。それとも頼み方が悪かっただろうか。知らず知らずの内に、口調が荒くなっていたのかもしれない。
男の動向に注意しつつ、翠の表情を窺う。どうやら自分の責任ではない様だ。何かこう……もっと根本的な問題であるような気がする。
「……何て言えば良いの?私ギリシャ語分からないんだけど」
「大丈夫ですよ。英語で言えば大体は……」
英語は言わば世界共通語だ。たとえその国の言語が分からなくても、英語をさえ話せれば大概は理解してくれるものだ。 しかし、翠の反応は随分と鈍いものだった。えぇっとぉ……と、バツが悪そうに頭を掻いている。ま、まさかこの人……。
「私、英語も分からないんだけど……」
「一体何語だったら分かるんですか!!」
「に、日本語しか……」
「あなた本当に外報部の記者ですか!?」
あぁ、何と言う事だ。まさか新聞社の外報部にキャンノットスピークイングリッシュの人がいるなんて思いもしなかった。何でこの人記者でいられるんだろう……。
幾多の言語を使いこなす勇輝にとってこれ程不可解なことはなかった。今までどうやって外国での取材をこなしてきたのか、全く見当が付かない。新聞社もよく彼女を雇い続けていたものだ。
今のやり取りで、場の緊張感が一気に崩壊してしまった。男も興ざめしたのか、やれやれと銃を下ろしてしまっている。
「楽しそうで何よりだ」
そう言った男の目は何処か哀愁を帯び、二人ではなくもっと遠くのものを見ているようだった。
取り敢えず殺気は感じられない。勇輝は警戒しながらも銃をしまった。一方、完全に混乱していた翠は落ち着きを取り戻し、今は不安げな目で、未だ眼光の鋭いままの勇輝を見つめていた。
「お前なら、あの方を止められるかもしれん。期待している」
下を向いていた銃口が弧を描き、男のこめかみに当てられる。
「……!」
パァンッ!
渇いた音が響き、男はその場に力なく倒れた。
「ひっ!し、死んだの……?」
翠はしばらくの間、生まれて初めて見る死体から目をそらす事が出来なかった。そこにあるのはついさっきまで喋っていた男の死体。生きた人間が動かぬ肉の塊に変わる瞬間を、彼女は目撃したのである。
刑事と行動するならいつかは遭遇するとは思っていた。しかしそれが、気持ち悪く恐怖に震えながらも、これほどにあっけなく終わってしまうものだとは、予測していなかった……。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく目線をそらす事に成功した時には、勇輝が呼んだのであろう救急車が死体を運び始めようとしていた。
「大丈夫ですか、翠さん?」
勇輝の目は優しい彼の目に戻っている。しかし、翠の頭の不安は消えなかった。
今の勇輝とさっきまでの人に圧力を感じさせるような、誰も信用していないような鋭い目をした彼……どちらが本物なのだろうか。
「翠さん……?」
「あ、ああごめん。もう大丈夫だから!」
心配そうに覗き込まれ、何ともないと答える。今の勇輝を見ていると、さっきまでの疑念を確認する気になれない。本気で翠を心配している。そう思えた。
こっちの警察に見つかって事情聴取でもされたら面倒だからと、勇輝は翠とその場を去り、何処かで宿泊する事にした。翠の取材初日が、ようやく終わりを告げた。
日本。警察庁警視総監執務室。
「そう、もう相手が動いたの。あの記者さん……翠ちゃんにはちょっときつかったんじゃないかしら?」
警視総監今井碧子は、目の前の書類の山に印鑑を押しながら、捜査官の報告に耳を傾けていた。
隣で副総監神崎達也が注意深く聞いている。弟子がうまくやっているか気になるのだろう。珍しく落ち着かない様子である。
「はい。ショックだったみたいです。そのせいか元気がなくて……」
電話の向こうの少年は、翠への対処に困っているようだ。無理もない。彼は仕事のための慰めならいくらでも出来るが、プライベートになると途端に不器用になる。幼い頃から仕事を叩き込んで来た事の代償だ。
そう思うと、碧子と達也は心が痛んだ。
「大丈夫よ。彼女も子供じゃないんだから、自分で覚悟を決めるわ。それより現場に着いたなら、一時も油断したらダメよ。何が起こるか分からないから」
「……はい」
失礼します。そう言って少年は電話を切った。
「結構あの子もピュアなのね。そう育てたの?」
「そんなことできるか。あくまで自然とそうなったに過ぎん。しかし人間性が残っているのは大きな進歩だろうし、俺はよかったと思っている」
まあ、そうだろうけどね。以前の特殊刑事育成課で育った者達は総じて、仕事ができる代わりに、人間性が薄れてしまっていた。
それでは人道的に間違っている。そう思い、慎重に育ててきた成果が、ようやく見え始めたのだ。
「何だか、私達が悪者みたいね」
印を押す手を休め、窓から外の世界を眺める。
空は暗くて窓は濡れており、見える景色はお世辞にも綺麗ではない。しかし、こうせずにはいられない。認めたくない現実に直面した時や悲しい過去を思い出した時は、こうして外を眺めるのだ。自分への心が汚れなきものであることを願いながら。はっきりとした根拠はない。そうすることで何となく心が安らぐ気がするから……。
しかし皮肉なことに、染みが広がっていく景色をみていると、最も思い出したくないことを思い出してしまう。
「……あながち間違ってないかもな」
正義の組織を目指して設立された特殊刑事育成課……。その存在が、最も尊重されるべき子供の人間性を消去している。とても正しいと言えることではなかった。
せめて、勇輝をきっかけにその流れが代わってくれれば……そう願わずにはいられない。
「仕事を進めろ。頭の固い連中がまた活気づくぞ」
「……うん」
雨が降っていた。惨劇の日も、今のように……。