第二章 惨劇の裏側2
考えてみれば不思議な状況だ。ついさっき出会ったばかりの少年と、飛行機に乗って二人旅……。まあ、彼は刑事で自分は記者。密着取材と解釈すれば、別に考えられない状況でもないか……。
それにしてもこの少年、一体どんな教育を受けてきたのだろうか。別に態度が悪いとかじゃない。むしろ良すぎるのだ。
第一に、彼のコミュニケーションのうまさ。
ギリシャへ向かうとなると相当な長旅だ。私が暇しているのを見ると、それを解決するために即席で考えたとは思えないような話を始めるのだ。と言うのも、まだ互いの趣味等を理解しているような仲ではないので、最近の目立ったニュースの話をする。私が記者である以上、無関係者以上の事を知っているだろうから、話のネタにはなるだろうとふんでいるのだろう。
驚きなのはここからだ。私も人であるから、ニュースのジャンルにも興味のあるものないものがある。ちなみに政治のニュースあたりが好きだ。それを私の表情やノリ具合から察し、より好ましい方へ話を持っていく。しかもただ単に話を変えるのではなく、変えた先でもまた話を用意している。これが若干十二歳の少年が身に付けている話術であろうか。
第二に、物腰のやわらかさだ。
個人的な印象として、十二歳と言えばまだ正確な順位を把握しておらず、目上の人間に対しても敬語を使ったりはしない。人によると言ってしまえばそれまでだが、彼はあくまで私への敬意を忘れない。これから行動を共にするにあたって、互いの仕事が円滑に進むよう努力している。
そして、飛行機の搭乗する際に垣間見た運動能力。
しつこいようだが、私は決して運動神経が鈍い方ではない。運動は好きだし、それ相応の成績も出ていた。ところが彼はどうだ。
まだ少ししか見ていないから詳細はわからないが、恐らく私よりも運動能力に優れている。ずっと運動一筋でやってきた私にすれば、かなりショックなことだ。
相手は刑事……それなりのものを持っていて当たり前なのかもしれないが、こっちにも記者としてのプライドと言うものがある。それを一瞬にして砕かれた気分だ。もちろん向こうにそんなつもりはない。飛行機に乗るために、ただ急いで走っただけ。だから余計にモヤモヤが消えない。
「……ねえ、質問があるんだけど」
「あ、はい。何ですか?」
聞かなければならない。自分のプライドを粉々にされた以上、どのようなトレーニングを積んでいるのか。聞かなければ……!
心中では闘争心が燃え滾っている翠。紛いなりにも自分が敗北した理由を聞かないことには納得できない。一方、勇輝は翠の思惑を察し、まずい事をしてしまったかと後悔している。
「特殊刑事育成課って、具体的にどんな風に特殊刑事を育ててるの?その辺がもの凄く知りたいんだけど……」
顔では笑っているが、勇輝には彼女の背後にある紅蓮の炎が見え見えである。
まずいよまずいよ……知らない間に地雷を踏んじゃったみたいだ。でもいつ?どの辺で?この人を怒らせるような事をした記憶が全然ない。でも事実怒っているみたいだし……。
「え、ええと、僕にも守秘義務がありますから、それは……」
何とか穏便に話を終わらせようとする勇輝だが、翠は引き下がらない。
「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと教えてよ〜。殺したくなるでしょう」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖〜いっ!満面の笑みを浮かべながら殺意が充満している……!でもこれは秘密にしておかないと怒られるだろうし……。いや、教えないと冗談抜きで殺されそうだし……どうする、どうするの僕!?
翠の圧倒的な殺意に押しつぶされそうになりながら、必死に悩む勇輝。そんなとき、頭の中では天使と悪魔が出現していた。
『言っちまえよ。そうすれば楽になるぜ』
『だめだよ!守るべき秘密は守らないと……』
などと言うやり取りを延々と繰り返している。そうしている間にも翠の殺意は膨らみ、今にも爆発しそうである。しかし守秘義務が……しかし命が……。
「……わ、わかりました」
命の勝ち。そして悪魔の勝ち。仕事を終えた彼に安息の時間はあるのだろうか……。
「特殊刑事育成課に配属が決まると、まず如何なる状況にも紛れ込めるように訓練されます。具体的に言うと、ダンスパーティだとか、不良グループだとか。ダンスの方は割と簡単にできたんですけど、不良グループに対応するのは大変でしたよ」
ははは……と苦笑いを浮かべる勇輝。確かにその通りだろう。
元より活発な性格であったのなら、それにも対応することは、さして困難ではなかっただろう。が、勇輝の場合、年齢もさることながら、そう言った者達とは明らかに人種が違う。
街中で誰かと殴りあったり、夜中にバイクで走り回ったり、ひ弱そうな人間を狙って金を奪うなど、そう言った周囲に大きな被害を被るようなことを、捜査のためと割り切れる人間ではない。如何なる場合も、まず無関係者を守ることを最優先に考えるだろう。
自分にとって全く不慣れな現場に対応するための訓練。当然のことながら、特殊刑事と言うのは困難な道であるらしい。
「ある程度適応能力がついてくると、今度は運動能力の訓練に入ります」
これだ。何よりもこれが聞きたかった。いったいどのような訓練を……。
「どんな犯人が相手でも逮捕できるように、まず基礎体力から。それには走りこむのが一番だと言うことで、毎日毎日、一日中走らされました。いやあ、死ぬかと思いましたよ」
笑顔で語っているが、言葉に偽りはない。一日中走りこむなど、どこの軍隊がやっている訓練だ。それを小学生の少年にやらせるとは……最早犯罪なのでは?
しかし、勇輝自身もよく逃げ出さなかったものだ。そんな地獄のような訓練、逃走しても不思議ではない。それを潜り抜け、さらに今、仕事をしようとしているのだから、大したものである。
「二週間もすると、それをこなしつつ、腕立てとか、腹筋とか、背筋とか、様々な筋力トレーニングが始まります。僕の同期が五人くらいいましたけど、皆すぐにやめてしまいましたよ」
同期と言っても、僕よりずっと年上なんですけどね。と、勇輝は付け加えた。
当然と言えば当然である。幼い時期からあまりに鍛えすぎると、身体の成長にも影響すると聞いたことがある。そう言ったことを考慮すると、彼の同期は恐らく、全員二十歳を超えた青年だったはずだ。しかし、そんな者達でもあっさり逃げ去る訓練をやり遂げた勇輝って一体……。
「ようやく運動の訓練が落ち着いてきたかと思うと、今度は勉学です。現代文、古典、数学、英語、中国語、韓国語、イタリア語、ドイツ語、その他語学、日本史、世界史、科学、物理、生物、民俗学、心理学、天文学、経済学、統計学……それらをとりあえず大卒程度まで学びましたね」
改めて言う必要もないことかもしれないが、賢い。この少年は賢い。それはもうアホみたいに賢い。心理学とかならまだわかるが、天文学の何を捜査に利用すると言うのだ。プロの警察でもその辺のことは専門家に聞く。あまりに多くを学びすぎて頭がパンクしないかが心配である。
さらに勇輝の話は続く。あ、そうだ。資格もたくさんとりましたよ。国家資格では、公認会計士、司法書士、税理士、行政書士、精神保健福祉士、救急救命士、通関士、総合無線通信士、気象予報士。公的資格では、手話通訳士、衣料管理士、営業施設士ですかね。民間資格では……。
「……もういいわ。頭が痛くなる」
「そうですか?わかりました」
一体どれほどに資格をとれば気が済むのだ。ここまでくると完全に資格マニアである。何となく気分が悪くなった翠はトイレに立ち、しばらく席に帰ってこなかった。
空のたびは続く。
日本、東京都――。
警視庁、警視総監執務室。
「碧子、親父からの連絡は……」
頭を抱えて思い悩む今井碧子警視総監に、申し訳なさそうにしつつも問う神崎達也副総監。碧子は黙って首を横に振る。連絡はない。
捜査に行った十二歳の少年と二十過ぎの記者。この場にいる二人としても、彼らだけではさすがに心配になった。そのため、副総監の父、神崎正義元警視総監に、彼らの助っ人として同行するように依頼したのだ。
ところが現状はどうだ。正義は別の事件を追ってフランスに行ってしまい、黄宮勇輝と壌島翠の二人は今、飛行機でギリシャへと向かっている。
気になって今すぐにでも飛んでいきたいところだが、警視総監には警視総監の、副総監には副総監の仕事と言うものがある。それをすっぽかしてしまうと、必死で働いてくれている下の者達に示しがつかない。同時に、ようやく正義の集団へ変わり始めた警察が、また以前の状態に逆戻りだ。それでは今まで自分たちは何のために必死になってきたのか……。
今井碧子と神崎達也は、数年前の惨劇に遭遇して以来、あれがまた繰り返されることの無いよう、神崎正義の目指した警察の革命に勤しんで来た。その結果、二人の志が周囲に認められたのか、徐々に警察の体制そのものが変わりだした。その変化は今も、現在進行形で続いている。
ようやく訪れた変化を、周りの者たちの努力を、無下にするようなことができるだろうか。答えは……否だ。
「……ねえ、達也君」
「何だ?」
ひどく元気のない声で、碧子が語りかける。達也も彼女の胸中を察し、できる限り優しく答えた。そのことが、碧子には嬉しかった。
彼に初めて出会ったのは、自分が刑事になって初めての仕事……高等学校への潜入を行った時だ。その時の彼は父に似て、無愛想で不器用な青年だった。
誰よりも優しい心をもっている。しかし、それを表現する方法がわからず、周囲に冷たい印象を与えてしまう……。それが損な事だとわかっていても、自分一人ではどうすることもできない。そして、どうすることもできない自分を嫌う……。そう言った悪循環な思考回路の持ち主だった。
優しさの表現方法を知らない……それは多分、母親を早くに亡くし、父親も多忙なあまりゆっくり話す機会がない。そう言ったことが影響しているのだろうと、父親は息子の性格に責任を感じていた。
彼は強い……。惨劇で親友を失い、父は職の辞任を余儀なくされた。そんな悪しきことの連続にも関わらず、彼は未来を見つめることを諦めていなかった。それどころか、より一層先を見つめるようになった。今後必要になる特殊刑事……。そのための特殊刑事育成課の設立に勤しみ、それを完成させた。それがどれほど困難なことか……。
そして今、彼は私の心の内を察し、負担を与えないようにするにはどうするか、頭の中で必死に考えてくれている。これが嬉しくない筈がない。
「今度、栄司君と冥さんの墓参りに行きましょう。ずっとバタバタしてて、一度も行っていないから」
「ああ……そうだな」
優しく答えて、彼は微笑んだ。そう言えば、初めて見たなぁ……彼の笑顔。
――初めて見たな。君の笑顔を――
十数年前に、彼の父に言われた言葉……。その頃、私に名前はなかった。それを知った、当時警察署の所長だった神崎正義がつけてくれたのだ。
今井碧子……。泥沼のような今を生きる、碧き宝石のような子。この名前には、そう言う意味が込められている。正義の名付けた碧き宝石は、日本の警察を背負う立場となった。そしてその輝きで、泥沼だった今を変えつつあるのだ。
輝きを絶やすものか……。達也は固い決意を秘め、精一杯微笑んだ。
ギリシャ、エリニコン国際空港――。
「ふう……無事に着陸」
ほっと、翠が胸を撫で下ろす。飛行機がうまく着陸できずに墜落してしまうと言う事故は少なくない。うまくたどり着けるか、ずっと心配していたのだ。
当然、飛行機は何事もなく、アテネの国際空港へと着陸した。
「大丈夫ですか、翠さん」
先に立ち上がった勇輝が、翠に手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう」
「……ええ」
勇輝の言葉に答え、翠は彼の手を握った。