第二章 惨劇の裏側1
三、二、一……。
「ええええぇぇぇぇぇぇっ!?」
驚いてみる。いや、どちらかと言うと不可抗力なのだけど……。
翠は思い切り叫んだ後、半歩下がって状況を確認し直す。彼女の前には十代前半と思われる、茶色いコートを着た少年が立っている。髪は長いわけでもなく、短いわけでもない。穏やかそうな顔をしているので、おそらく温厚な子だろう。
何故驚いたのかと言うと、先ほどこの少年が明かした素性に問題がある。
妙な男がいきなりフランス行きの飛行機に乗り込んでしまった後、翠は自分を待っている刑事を探して、男に指示されたほうへと歩いていた。仕方ないだろう、このまま放っておくわけにはいかない。
ところがどうだ、男の言うとおり進んでいくと、空港の外に出てしまったではないか。
とりあえず辺りを見回してみるが、いるのは海外出張らしきサラリーマンや呑気に海外旅行と思われる老人たち、そして誰かを待っている子供。刑事らしき人などどこにもいない。
まさかあの男……ガセネタを!?実際のところ、名乗りもせずにさっさとどっかに行っちゃったし、考えられないことじゃない。いやしかし、人を騙せるほど器用な人には見えなかったし……いや、案外あれはそう見せるための演技だったのかも……いやいやしかし……。
今更言う必要があるかどうかすら疑問だが、怪しい。何かをひらめいて顔を上げたと思ったら、もう一度頭を抱えて考え始める。不信である証拠に、周りから冷たい視線が突き刺さっているのだが、翠はそれに気づかない。完全に自分の世界へ入ってしまっている。
「あの〜……すみません」
「困ったなぁ……このまま合流できなかったら間違いなくクビだよぉ……どう言い訳すれば……」
誰からか声をかけられている。が、マイワールドの力によってその声がかき消されてしまい、耳に入っていない。それに気を悪くしたのか、相手は思い切り息を吸い……。
「すみませんっ!!」
叫んだ。この周辺を歩く人が驚いたようにこちらを見るが、致し方ない。
「え……あ、はい?」
声が届いたのか、ようやく翠が反応する。やれやれ……と、相手はため息をついた。
一方、翠は突然声をかけてきた相手を不思議そうな目で見つめている。その理由は、相手の容姿にあった。
別に格好いいとか悪いとかの問題ではない。相手の背は小さく、どう見ても小学生の少年である。そのような子供が、なぜ自分に話し掛けてきたのか、それが不思議なのだ。
「もしかして、壌島翠さんですか?」
「え……ええ」
混乱しながらも問いに答える翠。それを聞き、少年はよかったぁ……とつぶやいた。
一体何がよかったのか。翠の疑問をよそに、少年は握手を求め、手を差し伸べた。
「初めまして。警視庁特殊刑事育成課所属、黄宮勇輝です。どうかよろしくお願いします」
と言う訳で、冒頭のカウントダウンへ戻る。
少年の方はと言うと、翠の大声に驚いたのか、両手で耳をふさぎ、強く眼を瞑っている。
「……もう、突然叫ばないでくださいよ」
心底驚いたらしく、少年は翠がまた叫ばないかと警戒している。もしまた叫ぼうものなら、今度は力ずくでも黙らせるつもりである。不本意だが仕方がない。このままでは自分の耳がこの若さで壊れてしまう。
翠は少年の自己紹介による驚きが抜けず、表情が固まったままである。
これはどうしたことだろうか。自分の記憶が正しければ、この国の法律では十五歳未満の労働は禁止されているはずである。しかし、この少年はどう見ても小学生。十五歳以上だとは思えない。
「あの……坊や、何歳?」
「十二歳です……できれば、坊やはやめてください」
それ見ろ、やはり小学生ではないか。法律違反者を逮捕するために行動する警察が法律を破っていては話にならない。いっその事この少年を証拠として裁判所に駆け込もうか……。しかし、編集長の望む真相はどうなる?
「あ……!」
一瞬迷ったのがまずかった。何かに気づいた少年が、突如翠の腕をつかんで走り出したのだ。
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
「飛行機が出発する時間です。詳しい説明は後でしますから、とにかく急ぎましょう!」
どうやら相当ギリギリだったらしい。翠がもう少し早く着ていればもう少し話もできただろうが、こうなってはどうしようもない。
仕方がない……。翠は腹をくくった。
そもそも自分がやるようなことではないはずなのだが、性格上法律違反を放っておくわけにはいかない。だが、この法律違反、何かしらの事情があるように思える。この少年の意志と、その事情を詳しく聞いた上で、訴訟を起こすかどうか判断することにしよう。
それにしてもこの少年、黄宮勇輝と言ったか。なんてスピードで走るのだ。小柄な少年と翠とでは、一歩の大きさが違う。加えて、翠は記者として機敏に動けるよう、トレーニングを重ねている。元々運動が苦手なタイプではなかったので、さして苦労はしなかった。しかし、この少年はその体格で、翠よりも若干速く走っている。翠は引き離されないようにするのが精一杯だ。
特殊刑事育成課……その名の通り、いかなる状況にも対応できるように教育しているのだろう。運動神経だけ見ても、若干十二歳の少年がこの能力とは……。
そうこう考えているうちに乗り場に到着し、そのまま飛行機に飛び込んだ。
パスポートや搭乗券等は、向こう側が用意していてくれたらしい。そう言えば、ちょっと前に顔写真の提出を編集長に要求されたっけ。ろくなことに使わないだろうと思っていたけど、このためだったんだ……。
相当前から目をつけられていた事に悲しくなる反面、そんなに前からこの計画は進んでいたのかと、何も知らない自分が何となくむなしくなった。
「突然走り出してすみません。疲れました?」
飛行機の席に座り、心配そうに翠の顔を覗き込む勇輝。急がなければ間に合わなかったとは言え、一般人を急に走らせすぎた。何とかついてきていたようだけど、相当疲労したはずだ。
「ううん、大丈夫よ……多分」
何とか息も整ってきて、驚いていた心臓も落ち着いてきた。中学と高校、陸上部で走りまくっていただけあって、このくらいは……。と思ったのだが、やはり若干疲れた。心の準備と、準備運動がすんでいればまた違っただろうが、如何せん突然だった。数年思い切り走っていないわけだし、仕方ないか。
飛行機は空へ飛び立つため、滑走路でスピードを上げている。このままあそこに向かって……あれ?
「ねえ、この飛行機どこに向かっているの?」
そう言えばそうだ。これからどこの国へ行くのかすら、自分は知らない。知ろうにも思い切り走っていたため、行き先を確認できなかったのだ。
一方、少年は少々困惑気味だ。
「どこって……ギリシャのアテネですよ。聞いていないんですか?」
編集長は教えるつもりだったのだろうが、何も聞かずに飛び出してきてしまったため、今回のことに関する詳細はまったく知らない。困ったな……と、勇輝は頭を抱える。
ギリシャ共和国(Hellenic Republic)。面積は十三万平方キロメートルで、日本の三分の一くらい。人口は約千九十四万人。首都はもちろんアテネで、そこに三百万人あまりが生活している。言語は現代ギリシャ語。英語も話せない翠にはさっぱりわからない。
「もしかして、どうして僕がギリシャへ向かうかも聞いてないとか?」
「全体としてはわかっているの。数年前の事件に関する調査でしょ?」
……あれ?今考えてみると、なぜギリシャへ行く必要があるのかがわからない。
数年前の惨劇は、言うまでもなく日本で起きた。日本で起きた事件は日本で調査し、解決するのが当たり前と言うものだ。なのにどうして欧州の国に行くのか……。
翠が混乱したことに気づいたのか、勇輝は深いため息をつく。
「……仕方ないですね。一から説明しますから、よく聞いてください」
そう言って、勇輝は今回の件に関する解説をはじめた。
三年前、かつてない惨劇が日本中を震撼させた。その事件は、当時マスコミを騒がせていた連続通り魔が逮捕されることから始まる。
連続通り魔の犯人は、当時十七歳の紅水冥と言う少女だった。少女はその若さで死刑が確定。犯人の名前が明かされることはなかったが、その事実がまたマスコミの動きを活性化させた。だが、このあと、さらに驚くべきことが起こる。少女が死刑宣告を受けた三日後、当時脱出不可能と言われたレクイエム刑務所から脱走したのだ。
警察はマスコミに叩かれながらも少女の行方を追い、彼女がある学校に通おうとしていると言う情報を得た。そこで当時の警視庁警視総監、神崎正義は、当時警察官になったばかりの少女、今井碧子刑事を潜入捜査官として、紅水冥が学校に通い始める日と同じタイミングで送り込んだ。
その後も犯行は繰り返され、紅水冥は共犯と思われる少年、倉坂栄司と共に逃亡を図る。
それに対し警察は、一般人を家の中に篭らせ、外にいる二人を孤立させ、逮捕すると言う作戦を実行する。だが、ここから事件は最悪の結果へと向かう。彼らに殺された被害者の遺族たちが一念発起し、それぞれの凶器を持って二人に復讐しようと動き出したのだ。
殺意を抱く集団から逃げるため、二人は分かれて逃走を試みるが、その後すぐに紅水冥が惨殺される。
刑事たちが最悪の結果を防ごうと町中を走り回ったが、結果的に倉坂栄司も遺族たちの手によってこの世を去った。この事件の責任をとり、神崎正義氏は辞任を表明。未成年刑事を警視総監、副総監に任命すると言う大問題を残し、警察を去った。
これが惨劇の概要である。警視総監、副総監に任命された未成年刑事は今年成人式を迎え、若き警察のトップとして職務をこなしている。
一般に公開されている情報としては、これで事件が終息したと言うことになっているのだが……。
「なっている……のだが?」
翠が首をかしげる。彼女としても、それが事件の全てだと思っている。まだ何かあるのか……。
「おかしいとは思いませんか?幾ら親族を殺されたとは言え、遺族の方々があのタイミングで、復讐のために動き始めるなんて」
あ……!と、翠はようやく勇輝の言いたいことを理解した。
もし仮に復讐したかったとしても、本当にそれを実行した人はいないだろう。納得できないと怒りながら、警察が一刻も早く捕らえるのを待っているのが普通だ。しかもタイミングが良すぎる。いくら篭る準備をする時間があったとは言え、遺族たちがひとつの場所、もしくは近隣に集まり、犯人を待ち構えるなど、早々できることではないのだ。
「そこで僕達警察は、あの事件の裏側に首謀者がいるんじゃないかと、極秘で捜査を進めてきたんです。遺族たちは何も語ってくれませんでしたから、自力で」
こうやって行動しているのだ。何もありませんでした、などと言う結果ではなかったのだろう。
「この国から出発している国際便の記録を全て調べたところ、二人の犯人が殺害された直後に出た便に、ある人物が搭乗していたことがわかったんです」
この事件の首謀者と思われる人物が……。勇輝の目がそう語っていた。ここまでくれば、ある程度先は見えてくる。
つまり、その人物が乗っていたのがこの便。そして……。
「その人物は今、ギリシャにいます」