第一章 恐怖の慟哭2
成田国際空港。ご存知の通り、関東唯一の国際空港である。海外出張に行くサラリーマン、旅行に行く一般人や学生が、広い施設の中を歩き回っている。
翠は灰色のコートの下にティーシャツ。半ズボンをさらに短くしたようなズボンをはき、太ももまである靴下を履いている。防寒できて、かつ動きやすい服装を選んだのだ。
勢いで来たはいいが、これからどうしたものだろうか。実のところ、待ち合わせている刑事がどんな人なのかも、どこで待っているのかも聞いていない。外国に行くのだから、空港であることに間違いはないだろうが、空港の中は広い。刑事らしき人物を見つけるのに、どれだけ時間がかかることか。
もしかしたら、向こうは待ちきれずに飛行機に乗ってしまうかもしれない。そうなれば密着取材どころではなくなってしまう。そんなことになったら編集長になんと言われるか……考えるだけで背筋が凍る。
冗談じゃない。そんなことになったら自分はどうなる。間違いなく記者を辞めさせられてしまうだろう。再就職しようにも、今の世の中そう簡単なことではない。
かと言って、今更編集長に電話して『待ち合わせ場所はどこですか?』などと言うふざけた質問をぶつける気にもなれない。何せ格好悪いのだ。
プライドか職かどうする……どうする私!?
「……君」
突如、肩を叩かれる。いつまでもきょろきょろしているから不審に思われたのだろうか。
いや、きっと向こうから見つけてくれたんだ。首からカメラ下げた人なんて報道関係じゃないと滅多にいないし、約束している以上心当たりはあるだろうし。
すべての考えを前向きにし、翠は振り返る。そこに立っていたのは、五十代前半ぐらいの渋い男だった。黒いジャンパーに、カッターシャツに紺色のズボン。どこかの会社にでもいそうな重役という感じがする。しかし、彼は翠の探している人物ではない。
特殊刑事育成課は、警視庁副総監神崎達也氏が、若い刑事を育てるために設立したものだ。彼のような強面のダンディが所属しているとは思えない。声をかけてくれた以上は、警察関係者である可能性もあるが……。
「誰かを探しているようだが……新聞記者か?」
ほら、やっぱりそうだ。
「はい!」
「……」
威勢のいい返事に驚いたのか、男が半歩引く。一方、この男に対し、翠は妙な既視感を覚えていた。
この人、どこかで見たことがある……。結構前だったと思うんだけど、誰だったかなぁ。スポーツ選手?いや、覚えがない。評論家?やっぱり覚えがない。同業者?これもまた覚えがない。でも、確実に見たことがある。どこでだったか……。
「う〜〜ん……」
大声で叫んだかと思いきや、今度は頭を抱えて悩みだす。もはや男の理解できる範囲の行動ではない。彼の目には翠が、まるで精神病患者のように映っているのだろう。
「……病院へ行くか?」
男の言葉に我に返った翠は、慌てて手を振る。
「だ、大丈夫です!何ともありませんから」
ならいいが……と言いつつ、納得のいかなさそうな顔する男。どうも心配だ。
本当にこいつで大丈夫なのか?第一印象で人の価値を決めるのはよくないが、これで安心していろと言うほうが無理というものだ。そのための私……なのだが。
「どうもすみません。あの、あなたは……」
どなたですか?と言う質問だろう。不思議に思われるのも当然か。見知らぬ男がいきなり声をかけてきたら、先ほど翠よりも怪しく思えるだろう。いや、それは言いすぎか?
とにかく、こいつを彼のもとへ届けなければ……。
「君が探している人物の所へ案内してやる。ついて来い」
「え、あ……はあ」
私の質問は無視なんだ……。少々へこんだが、すぐに男が歩き出したため、慌ててついていく。
やはりこの人……ではなかったらしい。しかし、案内してくれるといっている辺り、関係者であることに間違いはないだろう。と言う事は、この人も警察……?
そう思った瞬間、以前に見た男の姿が頭に浮かんだ。そうだ、この人も警察だ。けど、普通の警察じゃなかったような……。
またしても悩みだした翠。男にできるのは、それを無視することぐらいであった。
翠の思うとおり、この男はただの警察ではない。しかし、肝心のそこから先が思い出せない翠は、結局記憶の復帰を諦めてしまった。
「あなたも警察ですよね?海外捜査に行くんですか?」
コートの胸ポケットからメモ帳を取り出し、横を歩く男に問う。自分も新聞記者の端くれだ。それなりに経験もある。得れる情報は徹底的に得ておかなければ。
「……」
だが、男は黙ったままである。困ったものだ。人には黙秘権が存在する。相手がコメントを拒否すればそれ以上どうすることもできない。
ここはひとつ、あまり関係のない話をして場を和ませよう。
「あの、奥さんは……お子さんはいらっしゃるんですか?」
あ、別に取材じゃありませんよ。と、取り出したばっかりのメモ帳を胸ポケットに戻し、その言葉が本当であることを示した。もし彼が海外捜査へ行く人間の一人だとしたら、捜査している間、行動をともにすることになる。少しでも仲良くなっておいて損はないだろう。
答えなければ場が重いか……それを察した男は、渋々口を開く。
「一人、息子がいる」
答えてくれた……。まだ堅いが、とりあえず一歩前進だ。
「息子さんですか……。何をしてらっしゃるんですか?」
聞いてくる辺り、こいつは自分が何者であるか気づいていない。これでいい。この方が動きやすいと言うものだ。
以前自分が犯した過ちが、徐々に落ち着きを見せている。当時はどうなることかと思ったが、そこは人間の仕組みがどうにかしてくれているようだ。ただ……忘れられていくことを、あの二人はどう思っているのだろうか。
「そうだな……。ちょっと前まで学生をしていたが、今は割と高い地位を得ているようだ」
妙な言い回しだ。はっきりと答えるつもりはないという事か。彼の息子……何か隠さなければならないような職についているのだろうか。何れにせよ、一筋縄ではいきそうにない。
空港内を歩き始めて五分ほど。ふと男は無造作に落ちているものを見つけた。
「む……」
立ち止まった男の目線を、翠が追う。その先にあったのは、空港内で置いてある新聞紙だった。自分の所属する会社のものではないが、気分が悪い。
「あ、マナーがなってませんね。読んだら返すか持って帰るかしなきゃ」
不機嫌そうに言い、近くにあった新聞紙置き場へと持っていく翠。外報部にもかかわらず英語を話せない他、いろいろと抜けている翠だが、彼女にも取り柄といえるものがある。その内の一つが、マナーをしっかり心得ていることだ。
目の前に大きなごみが落ちていると、それを最適な方法で処理しなければいけないような気がしてくる。今回の場合、落ちているのが新聞紙なので、自分が製作に関わっている事も影響しているのだろうが、仮に新聞紙でなくても、彼女は動いただろう。
できて当然であるはずのことができない。そんな人間が増えている今、彼女のように動ける人間は少ない。落ちていたごみを処理する。ただそれだけのことだが、男は翠を高く評価した。
「……!待て」
感心しながらその様子を見ていた男だが、新聞の記事を見て、慌てて翠を止めた。
「え……どうかしましたか?」
「貸してくれ」
翠から新聞を受け取り、それを広げる男。注目したのは一面を飾っている記事ではなく、隅のほうにある小さな記事だった。
内容は、フランスで小規模なテロが発生。犯人はいまだ逃亡中。と言うものだった。
大事であるが、記事はかなり小さい。おそらく、フランス政府から圧力がかかったのだろう。本来ならば、今一面を飾っているようなくだらない記事よりも、よっぽど報道すべきものだ。
普通の人間なら、驚きつつも次の記事へ目を移すところだが、男の場合は違った。
「……行かなければならんな」
そう呟き、新聞紙を翠が返そうとした場所に置く。そうすると、男は従業員に何かを問い、金を払い、チケットを受け取った。
「あの……どうしたんですか?」
突然の行動に戸惑う翠。しかし、男は迷わず荷物検査へと向かう。
「すまないな。急用ができてしまった。君が探している刑事なら、ここを真っ直ぐ進み、外へ出たら見つかるだろう。以上だ」
一方的に言い、男は荷物検査装置の向こうへ消えてしまった。
残された翠は、呆然とその場に立ち尽くす。
「行っちゃった……あの、すみません!」
ぼうっとしていたのは一瞬のことで、すぐに男と話していた従業人に声をかける。
「さっきの人、何処行きのチケットを買ったんですか?」
「ああ、フランスだよ。いいのかい?置いていかれたみたいだけど」
警視庁――。
海外捜査の手続きというのも、なかなか面倒くさいものだ。何せあまり例がないのだから、仕方ないことかもしれないが、それだけでかなりの時間を取られてしまった。これから『育成課』を訪問して、デスクにたまった書類を片付けて……。考えただけでも気が遠くなる。
しかも、それらを済ます前に、手続きが済んだことを総監に報告しなければならない。相談しなければならないこともあるし……まったく、睡眠時間が足らなくて困る。
ぶつぶつと愚痴りながら、副総監神崎達也は総監執務室へ向かう。おそらく総監今井碧子は『育成課』の人間を海外捜査へ向かわせたことに対する文句を、公安委員会から受けていることだろう。気の毒に……。
しかし、今回のことは完全に碧子の意志だ。それなりの責任はとってもらわないとな。
警視総監執務室……。そう書かれた扉の前で立ち止まる達也。さてさて、中では碧子がどのような文句を聞かされているのか。そんなことを思いながら、扉を開ける。
「碧子、入る……」
「一体どういうつもりですか!?」
達也の声は、碧子の発した怒鳴り声によってかき消された。執務室の中では、碧子が一人、電話の相手に向かって怒鳴り散らしている。
「突然行き先を変更するなんて……。こちらから協力を要請しておいて言うのもなんですが、身勝手にもほどがあります!ただでさえあなたが動くのには問題があるんですよ!?」
どうやら相手は奴のようだ。それにしても、普段大人しい碧子をあそこまで怒らせるとは、奴め、何をしたんだ?
「とにかく、今すぐ戻ってください!彼らだけであの事件を捜査するのは危険です!」
向こう側がなんと言っているのかはわからないが、こちらにとってよほど都合の悪い行動であることは理解できた。そうでもなければ、碧子が怒鳴ることなど、あるはずがない。
以前からそうであったが、奴の行動は凡人には理解できない。奴自身に天才と言わしめた碧子ですら、何とか意図がつかめる程度だ。志を掲げるのは結構だが、それによって他人を巻き込まないでほしいものだ。
「そちらの事件は向こうの警察が何とかします!あなたは今すぐ……あ、もしもし!?」
切られたらしい。ああ、もうっ!と、受話器を思い切り親機に叩きつける。今度ばかりは奴の行動についていけないようだ。
声をかけるのもつらい空気だが、自分にもやるべきことがある。あまりここで時間を食っていては、本当に睡眠時間がなくなってしまうのだ。
「あ、碧子、海外捜査の申請が済んだぞ」
「そう、ご苦労様。悪いわね。面倒な仕事させて」
答えたものの、碧子は頭を抱えたままである。これは……自分の睡眠時間がどうのこうのと言っている場合ではない。
「想像はつくが……一体何があった?」
恐らくこれから公安委員会やその他さまざまな方面から苦情が殺到するだろう。普段の碧子なら簡単にあしらえるのだが、さすがにこの状態では無理がある。電話をかけてきた相手に怒鳴りつけてしまうこともあるかもしれない。そんなことになれば、海外捜査どころではなくなってしまう。自分が愚痴でも聞いて、彼女のストレスを少しでも軽減しなければ。
達也の意図を知ってか知らずか、碧子は抱えた頭を上げる。
「あの人が単身、今回の事件とは関わりのない国に行っちゃったのよ」
……あのクソ親父がっ!碧子に警視総監を任せた時点で腹が立っていたが、またしても碧子に負担をかけるとは。自分の志がどれほど大事かは知らないが、せめて他人に気を使う余裕を持った上でやるべきことだ。
奴のことだから、負担をかけている事にすら気づいていないだろう。尚の事たちが悪い。
「そうか……。どこへ?」
ここで自分が憤慨しては、状況はさらに混乱してしまう。落ち着いて、話を聞かなければ。
達也の問いに、碧子は机から新聞を取り出し、達也に渡した。小さな記事の切り抜きである。そこに、奴の行き先が書かれていた。
「フランスよ」