第一章 恐怖の慟哭1
惨劇から三年……。あのときの恐怖は、人々の記憶から消え去りつつあった。
事の始まりは前警視総監。国民の信頼を失った警察に革命を起こすため、男は才能のある者達を貪欲に集めた。それが最初の未成年刑事達である。その中には、現警視総監と、副総監の名もあった。
その時丁度、十数名を殺害した通り魔が逮捕された。しかし、程なくして通り魔は刑務所から脱走。そこから惨劇が幕を開けた。
犯人を被害者の遺族が殺害してしまうと言う最悪の事態を招いたのは、他でもなく未成年刑事であり、警視総監であった。自らの責任をとり、辞職を表明した警視総監は、次期警視総監としてなんと未成年刑事の一人を指名。刑事もそれを承諾し、史上初の未成年警視総監を誕生させたのである。
反抗の芽は根強かったが、事件はそこで終わった……かに見えた。
日本、東京都――。
警視庁、警視総監執務室。
文字通り、警察のトップに立つ人物が執務にふけるための部屋。人が訪れることはあまりなく、なんとなく重い雰囲気を放っている。そんな部屋では、いて当然とも言える警視総監と、副総監が重要な話し合いを行っていた。
「醜態だな。あれほどの惨劇を起こしておきながら、事件の核心がいまだ捕まっていないとは」
ソファに座り、書類と睨み合う副総監。その様子を、総監は申し訳なさそうに見つめている。
「本当に……。あの人に何て言えばいいのかしら」
名を言わないのは、『あの人』で互いが理解できるから。彼女が言う『あの人』は、一人しかいない。その人物へどう謝罪しようか、この事態をどう解決しようか……。彼女の頭の中で様々な悩みが渦巻いている。
この二人、就任した直後は数え切れないぐらいの非難を浴びた。
その原因と言えるのが、言うまでもなく彼らの年齢だった。就任当初、総監副総監共に十七歳。未成年が警察の頂点に立つと言う常識の範囲を飛び越えた就任に、公安委員会だけでなく、多くの国民も遺憾の意を示した。子供に国の治安を任せられるものか……と。
そんな批判を退け、数ヶ月前に二人は成人式を迎えた。批判はある程度減ったものの、いまだ耐えることはない。中でも一番批判の強かった時期と言えば、新たに課が設立された時だろう。
二人の就任直後、副総監は『特殊刑事育成課』なるものを作り、以後自分たちと同じ未成年刑事の育成に取り組んできた。
それはもう罵声の嵐だったと言う。しかし、副総監がそれをやめることはなく、総監がそれを咎める事もなかった。国民の批判に対し、副総監はこう語った。
「今の警察には、才能ある者たちの力が必要です。たとえ未成年であろうとも、特化した能力があるならば、是非とも貸していただきたい。『特殊刑事育成課』は、それを判断し、育てるためのものです」
ぎこちない敬語を話す彼の姿を、総監はただ後ろから見守っていた。
言うべきか迷う。事件の解決法としてこれほど有効な方法はない。少なくとも現時点で考え得る最も確実性の高い策だ。しかし、彼は納得するだろうか。何せその対抗策の要となるものを作ったのは彼だ。まだ早いと反対されるかもしれない。早いのは事実であるため、それに反論する余地はない。あの人に似て彼の頭は硬めだ。すんなり承諾してくれるだろうか……。
とは言え、他の対抗策が見つからない。それ以外に方法はない。となれば、やはり……。
「達也君、私に考えがあるんだけど……」
おずおずと副総監の名を呼ぶ。その声に反応し、彼がこちらを向く。
「考え……?」
警視庁副総監、神崎達也。二十歳。本人は自分のことを凡人だと思っているが、実際のところは……。先ほど記した通り、『特殊刑事育成課』の設立者である。
刑事になる前は普通の高校生として日々を過ごしていた。しかし、あの惨劇が起きた際に未成年刑事となり、その後副総監に就任する。常識を覆す要素その一だ。
「『特殊刑事育成課』に、今すぐにでも仕事ができそうな子はいない?」
通称『育成課』の管理は全て、設立者である達也が行っている。そのため、彼から伝えられる情報しか、総監には伝わっていない。伝えられることと言えば、今『育成課』に通っている人数ぐらいのもので、総監にとっても『育成課』は不確定要素の塊と言える。そしてだからこそ、希望の光がある。
「いないことはない。どいつも中々の筋をしている。その中でも、俺が個人的に期待している奴が一人……。おい碧子、まさかそいつに事件を任せるつもりじゃ……」
警視総監、今井碧子の意図に気づいた達也が、ソファから立ち上がる。碧子の方はと言うと『そのまさかです』とでも言うかのような表情で達也を見つめている。その顔を見て、言うんじゃなかったと、達也は後悔した。
一度言ってしまった以上、取り消しを許してはくれないだろう。恐らく達也が納得するまで、碧子は説得と続けるだろう。そう考えると、背筋に悪寒が走るようだった。
「他に方法はないの。私達が動くわけにはいかないし、他の刑事に任せるのも頼りないわ。あなたが一目置く子に任せるのが一番なのよ」
確かに、それ以外に方法は浮かばない。しかし早すぎる。碧子は知らないが、達也の期待の星はあまりに若い。下手をすれば、有望な人材を失うことになりかねない。それ以上に、自分達の都合でもしその人物に何かがあれば、申し訳が立たないではないか。
未来の警察を信じて未成年刑事の訓練を受けると言ってくれた数少ない人物だ。私情を持ち込むのはよくないが、できる限り『育成課』の者達に速すぎる仕事はさせたくない。
あの二人のようになってしまうかもしれないのだから……。
「嫌がる気持ちはわかるけど、やっぱりこれしかないの。この写真の人物を捕らえなければ、あの惨劇は解決したことにならない。それでもいいの!?」
解決したと思っていた事件に更なる裏があった。ならばそれを調査し、真の解決へ導かなければならない。あの二人だって、同じ事を思っているはず。
「……どうなっても知らんぞ!」
半分やけくそで、達也は自分の鞄を開け、その中の書類から一枚取り、碧子の机に叩きつけた。その書類を見て、碧子は目を丸くして呟いた。嘘……若い、と。
ある程度は覚悟していたが、まさかここまでとは思わなかったようだ。しかし今更退く訳にはいかない。椅子から立ち上がり、もう一度達也を見つめる。
「神崎副総監、直ちにこの子の海外派遣の手続きを」
「……わかった」
しぶしぶながら、達也は指示に従った。
惨劇から数年。この窓から外を見ていると、人の記憶と言うものがいかにいい加減であるかを知ることができる。
事件発生当時は昼でも人通りの殆どなかったこの道は今、それぞれの勤め先へ向かう者達で溢れ返っている。いつも通りの朝の景色だ。恐怖を忘れた者達は、自分自身や家族の生活を支えるために、どこかの会社へと向かう。記憶の忘却……元に戻ったのは言いが、心から喜べることなのだろうか。
まだ、恐怖は続いているかもしれないというのに……。
小さな無名新聞社編集部。三階建ての建物の二階に、それはある。常に赤字すれすれであるにも関わらず、倒産するわけでもなく、長い間無名のまま数少ない読者に情報を届けている。自分が働く場所であるが、よく思う。不思議な会社だと。
実はこの会社、それなりに歴史があるらしく、もう半世紀以上は続いているそうだ。『ほそぼそと、ゆったりと』をモットーに、当初から赤字すれすれの経営を続け、現在に至る。忙しい街の一角に立てられた会社のモットーとは思えない。当時はどうだったか知らないが、東京はいまや日本有数の大都会の中でもトップに立つ場所だ。忙しいこの街で、普通は『ゆったり』などしていられない。
とは言え、自分はこの会社に雇われているわけで、何とか黒字の間はクビにされる心配もないわけだから、遠慮なしに文句を叩きつけるつもりはない。むしろ感謝しているくらいだ。ただ、今はその感謝を忘れつつある。
ついさっき、警視庁の関係者から、一本の電話が入った。最近設立された『特殊刑事育成課』に所属している者の中から一人が抜粋され、日本の外へと飛ぶそうだ。もちろん捜査のために。
なぜその情報が当社に入ったかと言うと、うちの編集長に関係があるからだ。
少し前に編集長自身が話してくれたのだが、彼は自分の息子を、惨劇の犯人に殺されたらしい。それだけでなく、犯人の二人組みを殺した被害者の遺族の中にいたそうだ。
しかし、いざ犯人たちを見つけたと連絡が入ると、突然怖くなってしまい、結局殺しにはいけなかったらしい。それが幸いし、編集長は罪を犯すことなく、この会社の椅子を守ることができた。
それから編集長が警視庁へ真実の公表を求めつづけた結果、向こうからある答えが返ってきた。
全ての公表は難しいが、新たに情報が入り次第、そちらへ伝える……と。それだけでなく、その時に有事の際の独占取材の事前許可までもらったそうだ。
そして今、警視庁が新たな動きを伝えてきたのである。それが、私がこの会社への感謝を忘れつつある理由だ。
情報が入った上、独占取材の許可まである。取材しない手はない。しかし、編集長は編集部のリーダーであるため、日本を離れるわけにはいかない。そこで、末端のジャーナリストに取材を……。
「壌島、仕事だ」
させるわけだ。冗談じゃない。私は日本で、それこそ『ゆったり』していたいと言うのに。はあぁ……。
と、心の底から溜め息をついたのは壌島翠。この新聞社外報部に勤める二十二歳。外報部とは、国際報道を担当する部のことである。
今回警視庁は、『育成課』に所属する刑事を海外へ向かわせる。その刑事にへばりつき、記事を作るのである。
「内容はわかっているだろう。パスポートを用意しておいた。それに、取材対象の刑事にも連絡をとってある。早急に準備して、密着取材を始めろ」
言っていることに問題はない。あの惨劇が終わっていないと言うのなら、更なる真実を知りたいと思うのも事実だ。しかし、翠にはどうしようもない。彼女に海外取材は不可能なのだ。
当然、編集長はそれを知らない。外報部に所属する以上、海外取材ができないはずがないと思っている。編集長が悪いのではない。責任は翠にある。
「あの、編集長。大変申し訳ないのですが私にこの仕事は……」
「心配するな。多少の危険は及ぶだろうが、死に至るようなことはないはずだ。そう言う事で、頼んだぞ」
何とか仕事を断ろうとしたが、その事情すら聞いてはもらえなかった。その後何を言っても、編集長は聞く耳もたんと言うかのように、最新の音楽プレーヤーを耳につけ、大音量で聴き始めた。
選択権は与えてもらえない。こうなってしまうと、残された道は一つしかない。
「わかりました。ただし、どうなっても知りませんからね!」
ついさっき警視庁で響いたのと同じようなことを叫び、翠は出て行った。
それを確認し、編集長は音楽プレーヤーを停止させる。状況を見ていた編集者が、心配そうに全開になった扉を見つめている。
「大丈夫なんですかね。あの人……」
「心配ない。何てったって外報部なんだからな」
自分の願いが編集長はご機嫌である。しかし、編集者は重い表情のままである。何故なら……。
「でも彼女、英語話せませんよ?」
だからだ。その後十秒、編集長は固まったままだった。