【給仕視点】三十年前、婚約破棄された柱の陰の令嬢を「何も存じません」とかばったら、その方は王妃様になりました
札の立った東の柱をあとにして、私は盆を持って広間を横切っておりました。
向かいの西の柱には、今年はどなたもいらっしゃいません。
そう思ったところへ、すぐ横から、聞き覚えのあるお声がいたしました。
「東の柱、取られちゃった」
王妃様でございます。
侍女もお連れにならず、扇を口元に当てて、東の柱を眺めていらっしゃいました。小さな札と、その陰に並んだモンテルラン公爵ご夫妻を。
「あそこ、来年は私が休むつもりだったのに。あの子、こういうときだけ早いのよ」
「恐れ入ります」
「謝らなくていいの。でも、あの札を立てたのはあなた?」
「手前は、何も存じません」
王妃様は、ふふっとお笑いになりました。
それから、くるりと向きを変えて、西の柱のほうへ歩いていかれます。
ドレスの裾をつまんで、迷いもせずに、まっすぐ。
柱の陰にすっと収まると、王妃様は扇の上から私に目を向けられました。
「こっちも予約できるかしら。ねえ、ジョルジュ」
王妃様は、昔から私の名前をご存じでいらっしゃいます。
三十年前の、あの夜から。
◆
三十年前の私は、王宮に勤めて十年目の、まだ青い給仕でございました。
十年勤めて、盆の上のものを落としたことは一度もございません。
ですが、当時の給仕長のベルナールさんの目から見れば、私などまだまだひよっこでございました。
「肘」
「はい」
「目」
「はいっ」
「客を見るな。盆を見ろ」
ベルナールさんは、言葉の少ない方でした。叱るときも、声を荒らげたことは一度もございません。そのぶん、余計に怖いのです。
その秋の夜会の支度の最中、ベルナールさんが私を呼びとめました。
「ジョルジュ。お客様に何か訊かれたら、何と答える」
「ええと……お答えできることでしたら、お答えして、できないことでしたら」
「違う」
ベルナールさんは、盆の縁を指でとんと叩きました。
「手前は、何も存じません。そう言え」
「何を訊かれても、ですか?」
「何を訊かれても」
若い私は、それを「余計なことに首を突っ込むな」という意味だと受け取りました。
見ても見ないふり。聞いても聞かないふり。
面倒に巻きこまれないための、便利なおまじない。
まったく、青うございました。
◆
その夜、私は広間の入り口で、到着なさったお客様に飲み物をお配りしておりました。
金髪の背の高い殿方――侯爵家のジェラール様が、連れのご令嬢に向かって、こうおっしゃるのが聞こえました。
「エレオノール。悪いけど、今夜は壁際にいてくれるかな。君が隣にいると、僕まで地味に見えるんだよ」
連れのご令嬢は、灰色の、それはそれは地味なドレスをお召しでした。
「分かりました、ジェラール様」
お嬢様は怒りも泣きもなさいませんでした。
本当に、すたすたと壁際へ歩いていかれたのです。
あまりに素直なので、言ったジェラール様のほうが、一瞬きょとんとしておいででした。
お嬢様は壁際を少し歩いて、西の柱の陰に入っていかれました。
そこには、先客がいらっしゃいました。
地味な鼠色の上着の青年です。柱にぺたりと背中をつけて、焼き菓子の皿を大事そうに抱えていらっしゃる。
お嬢様は少し驚いたお顔をなさって、それから柱の反対側に、そっと立たれました。
お二人とも、何もおっしゃいません。
柱一本ぶんの陰に、知らない者同士が二人。ずいぶん窮屈そうでございました。
私は盆を持って、柱の陰へ参りました。柱の陰にいらっしゃる方にも、盆はお回しする。これもベルナールさんの教えでございます。
お嬢様は焼き菓子をおひとつ取って、それから私の顔をご覧になりました。
「ありがとう」
膝が、かくんといたしました。
勤めはじめてから、あんなふうにお礼を言われたのは、初めてのことでございます。
若い私はどうしてよいか分からず、膝をがくがくさせたまま、柱の前から逃げるように下がりました。
盆は、水平のまま。
手ではございません。膝でございます。
◆
西の柱の前には、厨房の扉が二つございます。右から焼き菓子、左から果物。
ですから私は、その晩、西の柱の前を何度も通ることになりました。
次に通りかかったとき、柱の陰から小さなお声が聞こえてまいりました。
「次は、あの赤い羽根飾りの方が扇を落とします」
お嬢様のお声です。
見ると、広間の真ん中で、赤い羽根飾りのご婦人が大笑いなさって――扇が、ぽとりと落ちました。
本当に落ちました!
「当たった……」
青年のお声でした。
「当たりますよ。あの方、笑うときに扇を持った手を振り回すんです。ずっと見ていれば分かります」
「ずっと見ているのか」
「壁際って、見るくらいしかすることがないんです」
お二人は柱の陰から広間を眺めて、次に何が起きるかを当て合っていらっしゃったのです。
人当て、とお嬢様は呼んでいらっしゃいました。
「じゃあ、私も。次は、あの髭の伯爵が、あそこのご令嬢にダンスを申し込む」
「外れます」
「なぜ分かる」
「……奥様が、あそこに」
髭の伯爵は、ご令嬢の前まで行って、くるりと引き返していかれました。
「外れた」
「外れましたね」
青年は、ちっとも悔しそうではありませんでした。
むしろ楽しくて仕方がないというお顔で、もう次の相手を探していらっしゃいます。
その次に通りかかったときには、お嬢様に呼びとめられました。
「給仕さん、答え合わせ、してもらえます? さっきの髭の伯爵様、あのあと奥様に扇でぶたれましたよね?」
「手前は、何も存じません」
教わったとおり、一言一句たがえずに申し上げました。
ところがお嬢様は、私の顔をじっと見つめて、くすっと吹き出されたのです。
「当たり。顔に書いてあります」
「えっ」
「あなた、お名前は?」
「ジョ、ジョルジュでございます」
「ジョルジュ。覚えました。また答え合わせ、お願いしますね」
ベルナールさんの教えは、口だけでなく顔にも要るのだと、そのとき知りました。
その次に通りかかったとき、柱の陰からは、話し声が聞こえてきませんでした。
お嬢様が、広間の真ん中を見つめていらっしゃいました。
ジェラール様が、山吹色のドレスのカミーユ様の手を取って、二曲目も、三曲目も踊っておいでです。
「あれも、当てていたのか」
青年が、小さくお訊きになりました。
「ええ。……春ごろから」
口元は笑っていらっしゃいます。
けれど、その短いお返事は、少しだけ細うございました。
青年は、何もおっしゃいませんでした。
代わりに、ご自分の皿から焼き菓子をひとつ取って、お嬢様の皿に、そっと載せられました。
お嬢様はしばらく焼き菓子を見下ろしていらして、それから半分に割って、片方を青年の皿へお戻しになりました。
私はといえば、盆を持ったまま、柱の前に突っ立っている始末。
給仕が柱の前で立ち止まってはいけないことくらい、分かっておりました。分かっておりましたが、足が動かなかったのでございます。
客を見るな、盆を見ろ。そう教わったはずの私の目は、その晩ずっと、柱の陰ばかり見ておりました。
◆
夜会も半ばを過ぎたころから、広間が妙にざわつきはじめました。
「王太子殿下は、どちらに?」
「外国からお戻りになったばかりで、まだどなたもお顔をご存じないんですって」
「金の刺繍の上着をお召しだと、伺ったけれど」
ご婦人方は、きらきらしい殿下を探して、広間じゅうを右へ左へ。
そのとき、柱の陰で、青年がぽつりとおっしゃいました。
「次は、あの紫のご婦人が、この柱を覗きに来る」
「どうして分かるんです?」
「勘だ」
紫のご婦人が、扇を揺らしながら、こちらへ歩いてこられます。
「当たった!」
青年は嬉しそうにおっしゃって――次の瞬間、私の手から、盆をひょいと取り上げました。
え、と思う間もございません。
青年は盆を片手に、柱の前にすっと立たれました。背筋を伸ばして、肘を張って。
盆を取られた私は、柱の陰の、お嬢様の隣に押しこまれております。
「焼き菓子はいかがでございますか、奥様」
紫のご婦人は焼き菓子をおひとつつまんで、柱の陰を覗きこまれました。
地味な灰色のドレスのご令嬢と、給仕がひとり突っ立っているだけなのを確かめると、つまらなそうに行ってしまわれました。
給仕の顔も上着も、どなたもご覧になりません。
青年は、盆を私に返してくださいました。
「助かった。肘は、これで合っていたか?」
「はい。……いえ、少し、張りすぎでございます」
思わず、ベルナールさんの口調で申し上げてしまいました。
お嬢様が、柱の陰で肩を震わせていらっしゃいます。
「初めて当たりましたね」
「自分のことだからな」
念のために申し上げておきますと、盆の上のものは、ひとつも落ちておりません。
盆ごと取られたことは、ございますが。
◆
事件が起きたのは、そのすぐあとでございます。
「皆様、聞いていただきたい!」
広間の真ん中で、ジェラール様が声を張り上げられました。
楽団の弓が止まり、ご婦人方の扇が、ぱたぱたと閉じていきます。
ジェラール様の隣には、山吹色のカミーユ様。
「僕は今夜、エレオノール嬢との婚約を破棄する!」
広間じゅうの目が、壁際へ――西の柱へ集まります。
「彼女は柱の陰で男と会っていた! 婚約者の僕を差し置いて!」
壁際にいてくれとおっしゃったのは、どなたでしたか?
そう思った私の腕を、ジェラール様がぐいとつかまれました。ちょうど盆を持って、すぐそばを通りかかっていたのです。
「おい、給仕! お前、何度もあの柱の前を通っていたな。見ていただろう。あの女は、誰と一緒にいた!」
広間じゅうの目が、今度は私に集まります。
膝が、また揺れはじめました。
柱の陰に、どなたがいらしたか。
私は、全部見ておりました。
人当ても。外れても楽しそうなお顔も。二つの皿を行き来した焼き菓子も。
耳の奥で、ベルナールさんの声がいたしました。
手前は、何も存じません。
面倒に巻きこまれないための、便利なおまじない。
私は盆を、水平に持ち直しました。
膝はまだ揺れております。けれど、声だけは揺らさずに出せました。
「手前は、何も存じません」
「なっ……嘘をつけ! 給仕の分際で、僕に――」
ジェラール様が腕を振り上げます。
「柱の陰にいたのは、私だ」
西の柱の陰から、鼠色の上着の青年が、ゆっくり出ていらっしゃいます。
「ついでに、さっきの給仕も私だ。肘が張りすぎだと叱られた」
広間のどこかで、誰かが天井を仰ぐ気配がいたしました。
ベルナールさんでございます。広間の端で、盆を持ったまま。
「殿下! こんなところに」
息を切らした侍従が、人垣をかき分けて駆けこんでまいりました。
「で、殿下……?」
かすれたお声は、カミーユ様のものでした。
楽団も止まった広間に、柱の陰からお嬢様のお声が、思いのほかよく通りました。
「次は、カミーユ様が手を離します」
カミーユ様は、ジェラール様の手をぱっと離されます。
ためらいは、ひとつもございませんでした。お嬢様の人当ては、最後まで外れません。もっとも、あれは人当てをしていなくても、誰にでも当てられたと思います。
「まあ、殿下! わたくし、ずっとお探ししておりましたのよ!」
駆け寄ろうとなさるカミーユ様を、殿下はご覧にもなりません。
西の柱の陰へ戻られて、お嬢様に手を差し出されました。
「人当て、まだ一度しか当たっていないんだ」
「それも、ご自分のことでしたけれどね」
「だから、当たるまで付き合ってもらう」
お嬢様は灰色のドレスの裾をつまんで、殿下の手をお取りになりました。
楽団が、思い出したように弓を構えます。
広間の真ん中には、ジェラール様がお一人で残されました。
婚約者にも、乗り換えるおつもりだったお相手にも、置いていかれて。
ジェラール様はその後、夜会では壁際にお立ちになることが増えたと伺っております。
どの柱の陰にも、先客がいらしたようですが。
◆
夜会のあと、厨房でベルナールさんに呼ばれました。
給仕がお客様の前で口を開いた。そのうえ、王太子殿下に盆を取られた。叱られる理由なら、山ほどございます。
私は首をすくめて立っておりました。
ベルナールさんは何もおっしゃらずに、私のまかないの皿に、焼き菓子を一枚置かれました。
ほかの者の皿より、一枚多く。
「いい使い方だった」
それだけおっしゃって、ベルナールさんは背中を向けられました。
しばらく焼き菓子を眺めていて、私ははたと気づきました。
「ベルナールさん。あの方が殿下だって、最初からご存じだったんですか?」
ベルナールさんは、振り返りもなさいませんでした。
「手前は、何も存じません」
とぼけ方まで、師匠のほうが一枚上手でございました。
◆
――それが、三十年前のお話でございます。
西の柱の陰で、王妃様は扇を揺らしながら、私の返事を待っていらっしゃいました。
「それで、予約は?」
そこへ、柱の陰のもう半分に、ぬっと人影が入りこんでまいりました。
国王陛下でございます。
「大臣たちが追ってくる。少し隠れさせてくれ」
「あら。やっぱりここ」
「ここ以外に、どこに隠れるんだ。やっと甥っ子が空けてくれたんだぞ」
陛下は柱にぺたりと背中をつけて、王妃様の隣に収まられました。あの夜と、まったく同じ姿勢で。
ふと東の柱を見れば、あちらでは坊ちゃまが、奥様の隣で、柱にぴたりと背中をつけていらっしゃいます。
広間の両側の柱に、同じ形のお二人。
思えば、八つの坊ちゃまが菓子台の下で膝を抱えていらした夜も、伯父上にそっくりでございました。
血筋でございますな。
「ジョルジュ?」
王妃様に呼ばれて、私は盆を持ち直しました。
「四十年やっておりますが、一年に二度承ったのは初めてでございます」
王妃様はころころと笑い声を立てられ、陛下は「二度?」と首をかしげておいででした。
王妃様が扇をぱちんと閉じて、まっすぐ私の顔をご覧になりました。
「ジョルジュ。あの夜は、ありがとう」
盆を持つ手が、揺れました。
四度目でございます。
三度目からまだ、いくらもたっておりません。今夜はずいぶん忙しゅうございます。
盆の上は、無事でございました。
私はお二人に皿をお渡しして、焼き菓子を一枚ずつ多く置きました。
陛下が皿に目を落として、おっしゃいます。
「なぜ、一枚多いんだ?」
三十年前、師匠が私の皿に一枚多く置いてくださった夜のことを、ほんの少しだけ思い出しました。
「手前は、何も存じません」
王妃様が扇の陰で、三十年前とちっとも変わらないお顔をなさいました。
(了)
最後まで読んでいただきありがとうございます。
評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




