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【給仕視点】三十年前、婚約破棄された柱の陰の令嬢を「何も存じません」とかばったら、その方は王妃様になりました

作者: 更田遅筋
掲載日:2026/11/02

 札の立った東の柱をあとにして、私は盆を持って広間を横切っておりました。


 向かいの西の柱には、今年はどなたもいらっしゃいません。


 そう思ったところへ、すぐ横から、聞き覚えのあるお声がいたしました。


「東の柱、取られちゃった」


 王妃様でございます。


 侍女もお連れにならず、扇を口元に当てて、東の柱を眺めていらっしゃいました。小さな札と、その陰に並んだモンテルラン公爵ご夫妻を。


「あそこ、来年は私が休むつもりだったのに。あの子、こういうときだけ早いのよ」


「恐れ入ります」


「謝らなくていいの。でも、あの札を立てたのはあなた?」


「手前は、何も存じません」


 王妃様は、ふふっとお笑いになりました。


 それから、くるりと向きを変えて、西の柱のほうへ歩いていかれます。


 ドレスの裾をつまんで、迷いもせずに、まっすぐ。


 柱の陰にすっと収まると、王妃様は扇の上から私に目を向けられました。


「こっちも予約できるかしら。ねえ、ジョルジュ」


 王妃様は、昔から私の名前をご存じでいらっしゃいます。


 三十年前の、あの夜から。


◆


 三十年前の私は、王宮に勤めて十年目の、まだ青い給仕でございました。


 十年勤めて、盆の上のものを落としたことは一度もございません。


 ですが、当時の給仕長のベルナールさんの目から見れば、私などまだまだひよっこでございました。


「肘」


「はい」


「目」


「はいっ」


「客を見るな。盆を見ろ」


 ベルナールさんは、言葉の少ない方でした。叱るときも、声を荒らげたことは一度もございません。そのぶん、余計に怖いのです。


 その秋の夜会の支度の最中、ベルナールさんが私を呼びとめました。


「ジョルジュ。お客様に何か訊かれたら、何と答える」


「ええと……お答えできることでしたら、お答えして、できないことでしたら」


「違う」


 ベルナールさんは、盆の縁を指でとんと叩きました。


「手前は、何も存じません。そう言え」


「何を訊かれても、ですか?」


「何を訊かれても」


 若い私は、それを「余計なことに首を突っ込むな」という意味だと受け取りました。


 見ても見ないふり。聞いても聞かないふり。


 面倒に巻きこまれないための、便利なおまじない。


 まったく、青うございました。


◆


 その夜、私は広間の入り口で、到着なさったお客様に飲み物をお配りしておりました。


 金髪の背の高い殿方――侯爵家のジェラール様が、連れのご令嬢に向かって、こうおっしゃるのが聞こえました。


「エレオノール。悪いけど、今夜は壁際にいてくれるかな。君が隣にいると、僕まで地味に見えるんだよ」


 連れのご令嬢は、灰色の、それはそれは地味なドレスをお召しでした。


「分かりました、ジェラール様」


 お嬢様は怒りも泣きもなさいませんでした。


 本当に、すたすたと壁際へ歩いていかれたのです。


 あまりに素直なので、言ったジェラール様のほうが、一瞬きょとんとしておいででした。


 お嬢様は壁際を少し歩いて、西の柱の陰に入っていかれました。


 そこには、先客がいらっしゃいました。


 地味な鼠色の上着の青年です。柱にぺたりと背中をつけて、焼き菓子の皿を大事そうに抱えていらっしゃる。


 お嬢様は少し驚いたお顔をなさって、それから柱の反対側に、そっと立たれました。


 お二人とも、何もおっしゃいません。


 柱一本ぶんの陰に、知らない者同士が二人。ずいぶん窮屈そうでございました。


 私は盆を持って、柱の陰へ参りました。柱の陰にいらっしゃる方にも、盆はお回しする。これもベルナールさんの教えでございます。


 お嬢様は焼き菓子をおひとつ取って、それから私の顔をご覧になりました。


「ありがとう」


 膝が、かくんといたしました。


 勤めはじめてから、あんなふうにお礼を言われたのは、初めてのことでございます。


 若い私はどうしてよいか分からず、膝をがくがくさせたまま、柱の前から逃げるように下がりました。


 盆は、水平のまま。


 手ではございません。膝でございます。


◆


 西の柱の前には、厨房の扉が二つございます。右から焼き菓子、左から果物。


 ですから私は、その晩、西の柱の前を何度も通ることになりました。


 次に通りかかったとき、柱の陰から小さなお声が聞こえてまいりました。


「次は、あの赤い羽根飾りの方が扇を落とします」


 お嬢様のお声です。


 見ると、広間の真ん中で、赤い羽根飾りのご婦人が大笑いなさって――扇が、ぽとりと落ちました。


 本当に落ちました!


「当たった……」


 青年のお声でした。


「当たりますよ。あの方、笑うときに扇を持った手を振り回すんです。ずっと見ていれば分かります」


「ずっと見ているのか」


「壁際って、見るくらいしかすることがないんです」


 お二人は柱の陰から広間を眺めて、次に何が起きるかを当て合っていらっしゃったのです。


 人当て、とお嬢様は呼んでいらっしゃいました。


「じゃあ、私も。次は、あの髭の伯爵が、あそこのご令嬢にダンスを申し込む」


「外れます」


「なぜ分かる」


「……奥様が、あそこに」


 髭の伯爵は、ご令嬢の前まで行って、くるりと引き返していかれました。


「外れた」


「外れましたね」


 青年は、ちっとも悔しそうではありませんでした。


 むしろ楽しくて仕方がないというお顔で、もう次の相手を探していらっしゃいます。


 その次に通りかかったときには、お嬢様に呼びとめられました。


「給仕さん、答え合わせ、してもらえます? さっきの髭の伯爵様、あのあと奥様に扇でぶたれましたよね?」


「手前は、何も存じません」


 教わったとおり、一言一句たがえずに申し上げました。


 ところがお嬢様は、私の顔をじっと見つめて、くすっと吹き出されたのです。


「当たり。顔に書いてあります」


「えっ」


「あなた、お名前は?」


「ジョ、ジョルジュでございます」


「ジョルジュ。覚えました。また答え合わせ、お願いしますね」


 ベルナールさんの教えは、口だけでなく顔にも要るのだと、そのとき知りました。


 その次に通りかかったとき、柱の陰からは、話し声が聞こえてきませんでした。


 お嬢様が、広間の真ん中を見つめていらっしゃいました。


 ジェラール様が、山吹色のドレスのカミーユ様の手を取って、二曲目も、三曲目も踊っておいでです。


「あれも、当てていたのか」


 青年が、小さくお訊きになりました。


「ええ。……春ごろから」


 口元は笑っていらっしゃいます。


 けれど、その短いお返事は、少しだけ細うございました。


 青年は、何もおっしゃいませんでした。


 代わりに、ご自分の皿から焼き菓子をひとつ取って、お嬢様の皿に、そっと載せられました。


 お嬢様はしばらく焼き菓子を見下ろしていらして、それから半分に割って、片方を青年の皿へお戻しになりました。


 私はといえば、盆を持ったまま、柱の前に突っ立っている始末。


 給仕が柱の前で立ち止まってはいけないことくらい、分かっておりました。分かっておりましたが、足が動かなかったのでございます。


 客を見るな、盆を見ろ。そう教わったはずの私の目は、その晩ずっと、柱の陰ばかり見ておりました。


◆


 夜会も半ばを過ぎたころから、広間が妙にざわつきはじめました。


「王太子殿下は、どちらに?」


「外国からお戻りになったばかりで、まだどなたもお顔をご存じないんですって」


「金の刺繍の上着をお召しだと、伺ったけれど」


 ご婦人方は、きらきらしい殿下を探して、広間じゅうを右へ左へ。


 そのとき、柱の陰で、青年がぽつりとおっしゃいました。


「次は、あの紫のご婦人が、この柱を覗きに来る」


「どうして分かるんです?」


「勘だ」


 紫のご婦人が、扇を揺らしながら、こちらへ歩いてこられます。


「当たった!」


 青年は嬉しそうにおっしゃって――次の瞬間、私の手から、盆をひょいと取り上げました。


 え、と思う間もございません。


 青年は盆を片手に、柱の前にすっと立たれました。背筋を伸ばして、肘を張って。


 盆を取られた私は、柱の陰の、お嬢様の隣に押しこまれております。


「焼き菓子はいかがでございますか、奥様」


 紫のご婦人は焼き菓子をおひとつつまんで、柱の陰を覗きこまれました。


 地味な灰色のドレスのご令嬢と、給仕がひとり突っ立っているだけなのを確かめると、つまらなそうに行ってしまわれました。


 給仕の顔も上着も、どなたもご覧になりません。


 青年は、盆を私に返してくださいました。


「助かった。肘は、これで合っていたか?」


「はい。……いえ、少し、張りすぎでございます」


 思わず、ベルナールさんの口調で申し上げてしまいました。


 お嬢様が、柱の陰で肩を震わせていらっしゃいます。


「初めて当たりましたね」


「自分のことだからな」


 念のために申し上げておきますと、盆の上のものは、ひとつも落ちておりません。


 盆ごと取られたことは、ございますが。


◆


 事件が起きたのは、そのすぐあとでございます。


「皆様、聞いていただきたい!」


 広間の真ん中で、ジェラール様が声を張り上げられました。


 楽団の弓が止まり、ご婦人方の扇が、ぱたぱたと閉じていきます。


 ジェラール様の隣には、山吹色のカミーユ様。


「僕は今夜、エレオノール嬢との婚約を破棄する!」


 広間じゅうの目が、壁際へ――西の柱へ集まります。


「彼女は柱の陰で男と会っていた! 婚約者の僕を差し置いて!」


 壁際にいてくれとおっしゃったのは、どなたでしたか?


 そう思った私の腕を、ジェラール様がぐいとつかまれました。ちょうど盆を持って、すぐそばを通りかかっていたのです。


「おい、給仕! お前、何度もあの柱の前を通っていたな。見ていただろう。あの女は、誰と一緒にいた!」


 広間じゅうの目が、今度は私に集まります。


 膝が、また揺れはじめました。


 柱の陰に、どなたがいらしたか。


 私は、全部見ておりました。


 人当ても。外れても楽しそうなお顔も。二つの皿を行き来した焼き菓子も。


 耳の奥で、ベルナールさんの声がいたしました。


 手前は、何も存じません。


 面倒に巻きこまれないための、便利なおまじない。


 私は盆を、水平に持ち直しました。


 膝はまだ揺れております。けれど、声だけは揺らさずに出せました。


「手前は、何も存じません」


「なっ……嘘をつけ! 給仕の分際で、僕に――」


 ジェラール様が腕を振り上げます。


「柱の陰にいたのは、私だ」


 西の柱の陰から、鼠色の上着の青年が、ゆっくり出ていらっしゃいます。


「ついでに、さっきの給仕も私だ。肘が張りすぎだと叱られた」


 広間のどこかで、誰かが天井を仰ぐ気配がいたしました。


 ベルナールさんでございます。広間の端で、盆を持ったまま。


「殿下! こんなところに」


 息を切らした侍従が、人垣をかき分けて駆けこんでまいりました。


「で、殿下……?」


 かすれたお声は、カミーユ様のものでした。


 楽団も止まった広間に、柱の陰からお嬢様のお声が、思いのほかよく通りました。


「次は、カミーユ様が手を離します」


 カミーユ様は、ジェラール様の手をぱっと離されます。


 ためらいは、ひとつもございませんでした。お嬢様の人当ては、最後まで外れません。もっとも、あれは人当てをしていなくても、誰にでも当てられたと思います。


「まあ、殿下! わたくし、ずっとお探ししておりましたのよ!」


 駆け寄ろうとなさるカミーユ様を、殿下はご覧にもなりません。


 西の柱の陰へ戻られて、お嬢様に手を差し出されました。


「人当て、まだ一度しか当たっていないんだ」


「それも、ご自分のことでしたけれどね」


「だから、当たるまで付き合ってもらう」


 お嬢様は灰色のドレスの裾をつまんで、殿下の手をお取りになりました。


 楽団が、思い出したように弓を構えます。


 広間の真ん中には、ジェラール様がお一人で残されました。


 婚約者にも、乗り換えるおつもりだったお相手にも、置いていかれて。


 ジェラール様はその後、夜会では壁際にお立ちになることが増えたと伺っております。


 どの柱の陰にも、先客がいらしたようですが。


◆


 夜会のあと、厨房でベルナールさんに呼ばれました。


 給仕がお客様の前で口を開いた。そのうえ、王太子殿下に盆を取られた。叱られる理由なら、山ほどございます。


 私は首をすくめて立っておりました。


 ベルナールさんは何もおっしゃらずに、私のまかないの皿に、焼き菓子を一枚置かれました。


 ほかの者の皿より、一枚多く。


「いい使い方だった」


 それだけおっしゃって、ベルナールさんは背中を向けられました。


 しばらく焼き菓子を眺めていて、私ははたと気づきました。


「ベルナールさん。あの方が殿下だって、最初からご存じだったんですか?」


 ベルナールさんは、振り返りもなさいませんでした。


「手前は、何も存じません」


 とぼけ方まで、師匠のほうが一枚上手でございました。


◆


 ――それが、三十年前のお話でございます。


 西の柱の陰で、王妃様は扇を揺らしながら、私の返事を待っていらっしゃいました。


「それで、予約は?」


 そこへ、柱の陰のもう半分に、ぬっと人影が入りこんでまいりました。


 国王陛下でございます。


「大臣たちが追ってくる。少し隠れさせてくれ」


「あら。やっぱりここ」


「ここ以外に、どこに隠れるんだ。やっと甥っ子が空けてくれたんだぞ」


 陛下は柱にぺたりと背中をつけて、王妃様の隣に収まられました。あの夜と、まったく同じ姿勢で。


 ふと東の柱を見れば、あちらでは坊ちゃまが、奥様の隣で、柱にぴたりと背中をつけていらっしゃいます。


 広間の両側の柱に、同じ形のお二人。


 思えば、八つの坊ちゃまが菓子台の下で膝を抱えていらした夜も、伯父上にそっくりでございました。


 血筋でございますな。


「ジョルジュ?」


 王妃様に呼ばれて、私は盆を持ち直しました。


「四十年やっておりますが、一年に二度承ったのは初めてでございます」


 王妃様はころころと笑い声を立てられ、陛下は「二度?」と首をかしげておいででした。


 王妃様が扇をぱちんと閉じて、まっすぐ私の顔をご覧になりました。


「ジョルジュ。あの夜は、ありがとう」


 盆を持つ手が、揺れました。


 四度目でございます。


 三度目からまだ、いくらもたっておりません。今夜はずいぶん忙しゅうございます。


 盆の上は、無事でございました。


 私はお二人に皿をお渡しして、焼き菓子を一枚ずつ多く置きました。


 陛下が皿に目を落として、おっしゃいます。


「なぜ、一枚多いんだ?」


 三十年前、師匠が私の皿に一枚多く置いてくださった夜のことを、ほんの少しだけ思い出しました。


「手前は、何も存じません」


 王妃様が扇の陰で、三十年前とちっとも変わらないお顔をなさいました。


(了)

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