(四)
しかし、いざ客人の来訪が告げられ、期待に胸を膨らませて母と二人挨拶に上がった陶子の前に現れたのは、仁王でも何でもなかった。成程父の言ったとおり、客人は鴨居に頭がつくほどに背丈が高く、体つきも逞しかったが、赤銅色であるべき肌は白く、恐ろしくあるべき両眼は穏やかであった。陶子はここに至ってようやく、仁王云々という父の言は、娘の子供っぽい思い込みに乗っかってからかった戯言であったと気づき、顔から火が出そうになった。目の前の澄んだように黒いまなざしを見るにつけ、ありもしない異形の客人を期待していたことが今にも看破されるのではと思われてならず、ひと通りの挨拶を済ませると、陶子は、あとは左京権大夫という人の顔をろくに見もせずに、そそくさと自室に逃げ戻ったのだった。
陶子が改めて義弘の元を訪れたのは、それから二日が過ぎた日の午後であった。春の日射しはまだ冷たく、粉をまぶしたような晴空を渡って遠くの山並みから吹く風も肌寒かったが、義弘は寒さが気にならぬのか、部屋の杉障子をいっぱいに開け放って風を入れた中で、褐色の衣を纏った背をこちらへ向けひとり文机に座っていた。広く、清寧な、巌のような後ろ姿であった。
「――あの、もし、よろしいでしょうか」
そっと声をかけると、義弘はくるりと振り返った。部屋を覗き込んでいる陶子の姿を捕えた目が、たちまち微笑した。巌の清寧が解け、精悍な躍動が息づいた。
「これは、上総介殿の御息女にございまするな。どうぞ、構いませんよ」
「でも、御用事の最中だったのではありませんか」
と言いながらも、そのくせ陶子は少女らしい遠慮のなさでもう部屋にさらりと上がり込み、義弘と向かい合わせに座っていた。
「何、ただの覚書の類にござる。折角、いにしえより貴き人々の愛でられた嵯峨野の地に逗留致すのですから、心に止まったくさぐさを、折に触れ書き留めておこうと思いまして」
義弘は答えた。二日前の自分との体面については何事か記してあるのだろうかと、何故ということもなく陶子はそんなことがふと気にかかった。
少々失礼と断って、義弘は文机の上に広げた手控えや硯箱を片づけ始めた。机の方へ半ば向き直りかけた肩ごしに、義弘の横顔が見えている。おかげで陶子は、この間は狼狽するあまりよく見ることの出来なかったその容姿を、そっと観察する機会を得た。
真っ先に目を捕えるのは、したたるばかりにつややかな黒髪と、清らかに白い肌であった。見ればうつむいたこめかみに一筋、細い後れ毛が落ちて、白磁に焼きつけられた色絵の鮮やかさである。すっきりと切れ上がったひとえまぶたを縁取る濃い眉は明るく秀で、その間に浮かぶ眉間は磨き上げた新月を思わせた。小鼻を深く刻んで盛り上がった鼻梁や強く張った顎の線などには、やはりもののふらしいいかつさも窺えたが、それとて陶子の目には荒々しさよりも表情に豊かな陰影を与える一要素に映った。これほどに涼やかな面立ちの方は、洛中を歩いてさえ、そうはいないと思った。が、しかし陶子は、その涼しい美貌の内に、何か異質の匂いもまた、同時に嗅ぎ取っていた。それは都の人々にはない、火のような、鋼のような、息づまるほどに張りつめた匂いであった。陶子はいくさというものを肌で経験したことはなかったが、これこそがいくさの匂いではないかと思いあたった。その想念は胸の奥でかすかな疼きとなり、陶子は少し当惑した。
「嵯峨野は、如何でございますか」
あまり黙っていてはと、陶子はあたりさわりのないことを尋ねた。
「美しゅうございますな」
義弘は言下に答えた。
「実は嵯峨野はこれまでも二度ばかり訪れておりますが、この、北嵯峨の方へ参ったのは初めてです。上総介殿がぜひにと申されるだけのことはある。まことに美しい土地です。殊に曇った日の美しさには目を奪われます」
「曇りの日でございますか。今日のようなよく晴れた日ではなく」
「曇り日です。雲が灰色に垂れ込めた下に、草木が輝くことをやめ彩りばかりを鮮やかに滲ませ横たわって行く様には、清冽な寂寥がございます。眺めておりますと、この地を愛でたいにしえびとの胸が伝わって参る心地が致します」
素直な口吻と美しい言葉は、聞いていて好もしかった。とりわけ義弘が嵯峨野の地を評してさりげなく言った、清冽な寂寥という一言は、快い痛みのようになって強く陶子の心中に触れた。