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(三)

      * * * * *


 陶子が母と暮らす屋敷は、小倉山と愛宕山に抱かれた北嵯峨の地、起伏のどかな田畑と、おちこちに点在する叢林(そうりん)の緑と、季節を映して折々にその彩りを変ずる山並みとに囲まれた田園地の一隅にあった。敷地の程近くには、嵯峨(さが)天皇を開基とし、のちには後宇多(ごうだ)上皇が院政を行われたという大覚寺の寺院があり、静かな夕刻には葉叢(はむら)のざわめきと共に修行僧の読経が聞こえた。


 屋敷は、父である今川泰範が、陶子の母と過ごす別邸として建てたものであった。かねてより嵯峨野の穏やかな景観を慕っていた父は、陶子の母を側室に迎えたのを機に、日々の繁忙を忘れて若い側室と静かな時を過ごしたいと、わざわざ北嵯峨に屋敷を建てそこに陶子の母を住まわせたのだった。母は内大臣三条公秀(きんひで)に連なる家の出で、実家は室町の大路沿いに屋敷があった。そのように華やかな場所で育った母が、景勝地とは言うもののその片方には草深さ、物寂しさの匂いの強い北嵯峨の地によく移る気になったものだが、もともと物静かなことを好む母は、屋敷周りの(わび)しさを取り立てて厭う風でもなかった。二年後に陶子が生まれ、陶子はそのままこの嵯峨邸で母の手で養育された。母と、時々通ってくる父に、歌を習い、管弦や舞を習い、そうして何思いわずらうこともなく、嵯峨野の田園風景にひっそりと守られて十何年を暮らして来た、陶子であった。


 その静かな暮らしの中に、急に客人が訪れることとなったのは、ちょうどふた月前であった。その客人が、大内左京権大夫義弘であった。


「権大夫殿が昨年春、御所様(将軍足利義満)に従い上洛を果たされたのは存じておろう」


 陶子と母を前に、近頃めっきり白くなって来た髭を撫でつつ、父はそう語った。


「昨年は入京したばかりのことで慌ただしく、ゆるりと愉しめぬままに花の季節を終えられたことを権大夫殿は残念がっておられてな。今年こそは思う存分に京の春を愉しみたいと申されるゆえ、それならば、花の終わるまでふた月ばかり、この屋敷で季節を愛でられてはとお招き致したのじゃ。申すまでもなく、周防大内家は我が叔父了俊の九州経略における盟友じゃ。また権大夫殿御自身も仲秋殿(了俊の弟)の息女を妻に迎えておられ、今川家とは縁が深い。心を尽くしたもてなしをしたいと思うてな」


 父の話に、屋敷が常に静穏であることを好む母は少し気乗りしない様子を見せたが、陶子の方は逆に、子供のように胸を躍らせた。今しがた言ったように、母が静かを通り越して寂しいことを好むため、父が通って来る他には、屋敷には親類縁者さえ訪れることがまれなのである。見ず知らずの人が長きに渡って屋敷に泊まり込むなど、陶子が生まれて以来初めてのことであった。


「父上、左京権大夫様とは、どのような方ですの」


 客人の来訪を待ちきれず、陶子はわざわざ父にそう訊いた。と言って、陶子とても、左京権大夫義弘という人物について知らないわけではなかった。大内家は古くから在庁官人として周防に勢力を張って来た家であり、義弘の父弘世(ひろよ)の代に長門を切り取り、のちに幕府に下って守護となった。幕命により九州探題として下向した陶子の大叔父、今川了俊を、父弘世と共に周防で迎えたのは、義弘十六の年である。以来二十年、義弘は了俊の第一の盟友として、探題方を助け九州の南朝軍攻略に功をあげて来た。今回の上洛と幕政への参与はそれを評されてのことであった。


 また義弘は、周防という京より遠く離れた辺土(へんど)にありながら歌に優れ、その名声は上洛前から京に聞こえていた。特に連歌においては好士(こうし)であり、師である前関白二条良基(よしもと)からは、「近日人多しと言えど当道の数寄他に異なる」と賛辞を受け、後円融(ごえんゆう)院の勅宣(ちょくせん)で編まれた「新後拾遺和歌集」にも、その二条前関白の推薦で一首が収められたとは、陶子も聞いている。大叔父了俊もまた歌道において高名な人であったから、この二人が三十以上も年齢が離れていながら非常に親しい深交を結ぶに至ったのには、政や婚姻上の拘わりのみならず、その歌の数寄ということにおいて肝胆相照らすものがあったためと思われた。


 しかし、陶子が今父に尋ねているのはそうした来歴などではなかった。生まれてこの方京を離れたことのない陶子は、辺土の民と言えばどうしても、平家物語に語られる、木曽義仲の都での乱行が浮かんで来る。勿論、左京権大夫様はそのような方ではないとしても、京からひと月がかりで歩かねばたどり着けぬほどの、地の果ての国の人であるから、その御容姿はやはりみやこびととは異なり、例えば寺の門前に赤銅色の巨体をそびえさせる仁王像のような、恐ろしい、荒々しいものなのではあるまいか。そんな、怖いもの見たさの好奇心が、陶子の中にはあったのだった。


「ははは、左様か」


 陶子の話を聞いて父は愉しげに笑った。


「うむ、膂力(りょりょく)と言い、その体躯(たいく)と言い、確かに権大夫殿は仁王の如き仁じゃ。小さくてか細いそなたなどは、見ただけでひっくり返るやも知れぬぞ」


 目を細めながら、父は陶子をそばに引き寄せまるで小さな子供にするようにこうべを撫でた。もうじき六十に手が届こうという父は、母が幾度小言を言っても、とうに娘盛りを迎えたはずの陶子を童女の如く扱うのをやめなかった。ただでさえ、父娘ほどに年が離れた父と母であったから、四十を過ぎてもうけた陶子は、父にとって娘よりも孫に近い意識なのである。そして、陶子が年頃になっても心から(いとけな)い空想が抜けぬのには、父のこうした接し方が要因となっているのは間違いなかった。ともかくも、父がそんなことを言って陶子の空想に御墨付きを与えたものだから、陶子はすっかり、赤銅色の肌に両眼がこめかみまで裂けた客人が屋敷に来るものと思い込んで、日を送った。

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