(二)
義弘は薬湯を飲み終え、空になった椀を膝元の盆の上に戻した。と、頭をうつむけたはずみに、髷がほつれていたのか、耳の上に細い髪束が幾筋か、はらはらと落ちかかった。
「あら権大夫様、おぐしが」
陶子が気づいて言った。義弘も気づき、指でほつれた髪を撫でつけた。
「もとどりが崩れたのでしょう。手で撫でつけただけでは直りませんわ。わたくし結い直して差し上げます」
「いや、陶子殿を煩わすには及びませぬ。明朝命じて直させまするゆえ、そのままで」
「出がけではそれこそ煩わしいではありませんか。少しお待ち下さいね、直して差し上げますから」
言いながら陶子はもう立ち上がっていた。蝶の飛び立つように出て行ったと思うと、少しして手に櫛箱を携え、耳だらいを持った侍女を従えて戻って来た。櫛箱、耳だらいと脇に並べ、書見台の傍らに立ててあった燭台を手元に持って来させた。
「さあ権大夫様、どうぞこちらへ」
手伝おうとした侍女を手を振って下がらせ、陶子は義弘を差し招いた。義弘は少し苦笑を浮かべたが、しかし言われるがままに立って来て、陶子に背を向け座った。長身の義弘の元結いを解くために、陶子は腰を浮かせ膝立ちになった。少しうつむき加減の逞しい首に、ほつれた髪が墨を刷いて散っている。漆黒の髪の下に、うなじが清らかに白い。傍らに据えた燭台の炎が、下顎から首筋にかけて霞んだ金色の隈どりを作っていた。紺色を纏った背は広く、間近に見ると眼前いっぱいに迫るほどに思われた。
二つ折りに結い上げられた髷に、陶子は手をかけた。結び目をさぐり、さぐりあてて爪先に力を込めほどいた。堅く巻き付いていた元結いは白く螺旋を描きながら難なく解け、支えを失った髷はたちまち形を崩した。もとどりを押さえていた陶子の手から髪が水のように次々とこぼれ、軽い衣ずれを立てて肩に落ちた。
陶子は膝元の櫛箱に手を伸べた。櫛箱は銀朱の漆塗で、ふたに二匹の胡蝶の舞い遊ぶ姿が沈金で施されている。ふたを開け梳櫛を手に取った。中に収められた櫛笄の一式も、箱の意匠に倣い銀朱地に胡蝶の文様である。少女の陶子にはともかく、歴戦のもののふである左京権大夫義弘の髪を梳くには、その可憐な櫛はいかにも不似合であった。
肩ごしに櫛を伸べ、まず右の小鬢に陶子は櫛の歯をあてた。髪の流れに沿いながら背の方へ梳き流すと、櫛歯は引掛りもなく髪の中を滑り、そのまま毛先からするりと抜けた。櫛から逃れて毛先が肩の上に一瞬躍り、布地を打ってかすかな音を立てた。
「――権大夫様。権大夫様に見ていただいて、わたくし少しはお歌が上達したでしょうか」
次にこめかみの辺りに櫛をあてながら、陶子が訊いた。
「上達致しましたよ。わたしの如き未熟者が申しては少々おこがましゅうござるが、詞の選び方など目に見えて良くなられました。やはり探題殿、今川了俊殿のお血筋ですな」
「そうだとよろしいのですけれど」
「いや、陶子殿は自らに才がないと頑なに信じておられるようだが、景色、情感を捕らえる良い目と、詞に対するみずみずしい感覚とを、陶子殿は持っておられます。いずれきっと、人々の心を揺り動かす歌を詠まれますよ」
「ありがとうございます。そのお言葉を胸に刻んで、精進致しますわ。――権大夫様は、京にはいつまでおいでになるの?」
「今のところは何とも申せませぬが。ただ、島津氏久が没したことで九州の状況も好転し、また探題殿のねばり強い経略が功を奏し、宮方(九州の南朝勢力)も近頃目立った動きを見せてはおりませぬ。陶子殿の大叔父殿を助けに、権大夫が九州へ馳せ参じる必要は当分ありますまい」
「では、またお歌を見ていただけますね」
櫛を動かしながら、陶子は義弘の後頭部に向かって言った。一見華やいだ口調であったが、背を向ける義弘を見つめる目にはふと、口調とは裏腹の翳りがよぎった。
語るに合わせ、肩に垂れた義弘の髪が揺れた。照らす灯明の火が髪のおもてをさざなみ立って流れ、結い跡のところで、光は強く屈折して、輝いた。流水の清らかさと陶子は思った。髪のゆらめきを、陶子は優しく掌に受けた。黒髪は既に夜気を含んでずしりと冷たい。陶子はたゆたう潮を思った。堺の津より出で、潮流は雄々しくうねって内海を西へと進む。潮はやがて鮮やかな瑠璃色に変わり、源平の世に平清盛入道より篤い信仰を受けた厳島の礒を洗い、そして周防の岸へと流れ着いてようやく身を休める――。その、蒼い潮の満ちる周防国が、義弘の領国なのだった。
くしけずられる黒髪の中に、陶子は義弘の故郷の地を夢想した。量豊かな髪に、銀朱の櫛は時折、呑まれてしまいそうになる。揺れる髪の布地をかすめる音、嵯峨野を覆い降り続く五月雨の音、蕭々たる雨声に追いやられて地上の音は悉く息をひそめ、静けさばかりがますます部屋に立ち込める。小倉山を越えてまた再び、雨音が強まって歩み寄せて来た。