(一)
小倉の山向こうから来た雨は嵯峨野の一帯を覆い、そのままに、やがて日は暮れた。陶子は塗り椀を小さな盆に乗せ、廊下を渡って行った。先を行く侍女が掲げる灯明の明かりを受けて、陶子の首筋が闇の中にほんのりと浮き上がっている。細く、白く、陶器のように華奢な首元に、椀から立ち昇った湯気が吹き流されて漂った。舞良戸一枚隔てた向こうに、しとしとと雨音が鳴った。
杉障子の隙間からは、かすかに明かりが洩れていた。金糸のような洩れ灯に、陶子は口を寄せた。
「権大夫様」
ややあって、男の、低い声が返った。
「陶子殿にござるか」
「はい。お邪魔してもよろしゅうございますか」
「よろしいですよ」
傍らから侍女が手を伸べて杉障子を引き開け、赤銅色の光が洩れ流れた。陶子は開いた戸の隙間から、小さな子供が大人の様子を窺う時のように、小首をかしげて室内を覗き込んだ。
権大夫様と陶子が呼んだその人、大内左京権大夫義弘は、床に座りこちらを半ば振り返った格好で、陶子を迎えた。書見をしていたらしく、斜交いにひねった体の向こうに、書見台と、そばに灯明があった。太い首や、彫深い小鼻の脇に炎が強い陰影を作り、白い肌を際立たせている。紺の衣を纏った広い背中が、床をうずめるように大きく影を作っていた。部屋に入る前に小首をかしげて一度中を覗き込む陶子と、書見台や文机から向き直りながらそれを迎える義弘と。昨日までと何ひとつ変わらぬ光景であった。
「まだお休みにならないのですか」
陶子が言った。
「堀川のお屋敷には明日の朝早くに戻られるのでしょう?」
「早くと申しても、夜明け前に発つわけではありませんよ。休むには少し早過ぎます」
義弘は笑って、もとどりの辺りに爪を差し入れしきりと掻きながら、書見台の本を閉じた。杉障子が背後に閉まり、侍女の足音が遠ざかって行った。陶子は携えた盆を、義弘の膝元へすすめた。うるみの塗り椀に、褐色に濁った汁が入っていた。
「お休みの前に飲んでいただこうと思って、お持ち致しましたの」
「薬湯ですか。これはかたじけない」
義弘は椀を取り上げた。縁に口を寄せ、息で冷ましながらすすり上げた。白い湯気が吹きちぎれて、闇間に溶けた。
「苦いですか」
椀をすする義弘の表情を察して、陶子が可笑しそうに訊いた。
「少々、苦うござりまするな」
「残してはなりませぬよ」
義弘が椀を盆に戻しかけたのを、陶子は怖い顔で制した。
「一体、何に効く薬ですか」
「体が温まって、よく眠れます」
「左様にございましたか。わたしはてっきり、眠気払いの薬湯かと」
冗談を言って、義弘は椀を取り直した。
風にあおられていっとき雨が屋根の上に強まり、雨音が、向き合って座る陶子と義弘の頭上に、急に厚みを持って覆いかぶさった。
「ふた月もの間、皆々様にはまことに世話になり申した」
雨音の中で義弘が言った。
「急な話であったにも拘らず、三条殿も陶子殿も快く迎えて下さいました。おかげで京の春を心ゆくまで堪能し、詩嚢を肥やすことが出来申した」
「そうおっしゃっていただくとわたくしも嬉しゅうございますわ。けれどもね、権大夫様、嵯峨野がお気に召したのであれば、もう少し屋敷においで下さればよろしゅうございますのに。わたくしも、母も、構わないのですもの」
「かたじけない。ではその言葉に甘えて、また遊びに参ります」
からりと義弘は笑った。父と歓談する時よりも、酒の席で皆に冗談を言う時よりも、部屋で陶子と二人過ごした時に一番よく見せた笑顔である。初夏の陽光のぱっと閃くような、それは陶子の最も好きな笑顔だった。