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(十四)

 再び、義弘の手が触れた。首垂れ、唇を噛む陶子を包み守護する黒い薄絹を、義弘は手で触れ、そして静かに撫で下ろした。鳥が飛び立つのを見ては涙を落とし、雨音を聞いては笑みを浮かべるような、陶子がたまさか見せた捕えどころのない少女の心のさざなみに、一度として臆したことのない義弘は、今も乱れる陶子の心の前に勇敢であった。小鬢へ、そして額へ、うなじへと、義弘の手はおもむろに動いた。仕種はひどく緩慢で、そこに義弘の意志は働いていないのではとさえ、思われた。


 手は一枚の影絵となって髪の上を滑った。時折、灯火の加減か爪が白々と光り、陶子の目には玉藻に絡んだ真珠のように見えた。爪の美しさも手の優しさも、陶子には苦しかった。黒絹の奥処(おくが)に陶子は孤独であった。苦しさに身を灼かれひとり震える陶子に、しかし義弘はただ黙って、無慈悲な優しさをその髪に与え続けるばかりだった。雨の音はもはや遠い。さっきまで聞こえていたと思った梢のざわめきもやんだ。五月雨の雨音の代わりに今は髪をさぐる衣ずれだけが、さやかに耳元に寄せ、また遠のき、そしてやがて、その音すらも消えた。


「――陶子殿」


 義弘の声がした。聞いたことのないような声であった。陶子は応えなかった。応えるすべもなかった。ただただ泣くまいと、それだけを心に念じ、琥珀香の(かぐわ)しい香りのこもる中、身をこわばらせ自分の吐息だけをじっと聞いていた。


 沈黙が過ぎた。と、衣ずれがし、義弘が立ち上がって背後に座ったのが分かった。手を伸ばし額の分け目に触れ、指で、垂れた髪を掻き分けた。それから、もう片側も。うつむいた目の前が覚めたように明るくなった。床に放ってあった梳櫛を拾い、義弘は今度こそ、陶子の髪を丁寧に梳き整えた。そこにはもはや謎めいたことも不分明なこともなかった。整然とした明晰な動作のみがあった。その手の動きは、闇の夜を越えて来た人を思わせた。首筋に櫛の歯がかすめた。冷たくなめらかな塗り櫛は、闇から現われた小さな、銀色に光る魚のようであった。間もなくのうちに髪は何事もなかったかのように梳き直され、元結いで束ねられた。水櫛を濡らし、義弘は生えぎわや鬢の辺りをきれいに撫でつけてくれた。


「陶子殿、済みました」


 義弘が言った。陶子は何と答えてよいか分からず、黙ってうつむいたまま、ぎこちなく頷いた。義弘が後ろから手の中に櫛を返してよこした。陶子はそれを、意識せぬままほとんど手の反応だけで櫛箱にしまった。ふたがぶつかって耳ざわりな音を立て、陶子は手の震えを悟られまいと急いでふたを押さえた。


「遅くまでお引き止め致した」


 櫛箱のふたを、指先が白むほどきつく押さえている陶子の背に、義弘は低く言った。


「どうかもう、お休み下され。わたしも陶子殿の言に従い、休むことと致します」


 それから隣室の宿直(とのい)に声をかけ、侍女を呼ばせた。侍女はすぐに来た。やって来た侍女に、陶子は耳だらいを片づけるようにと機械的に言いつけ、自分は櫛箱を持って立ち上がった。杉障子を引き開け部屋を出て行こうとした時


「――陶子殿」


 義弘が呼び止めた。足を止め振り向いた陶子を、義弘は刹那(せつな)の間ひたと見つめ、そして包み込むように笑んだ。


「陶子殿、このふた月、愉しゅうござった。北嵯峨での日々は忘れませぬ。権大夫にとって、生涯の思い出となりましょう」


 それは昨日までと何ひとつ変わらない笑顔、初夏の陽光の閃くような、陶子の最も好きな笑顔だった。


「――嬉しゅうございますわ」


 陶子は、やっとそれだけを答えた。胸に迫る思いを呑んで、精一杯の笑みを返し、そして、少しためらってから、


「わたくしも、生涯忘れませぬ」


 短いひと言を、言い置いた。一瞬、声が乱れ、陶子は侍女の脇をすり抜けるようにして廊下へ出た。


 部屋に戻ると、雨音が来た。雨はじき嵯峨野を通り過ぎ、洛中(らくちゅう)の方へと遠く去った。廊下に出て陶子は舞良戸(まいらど)を一枚()った。待つうち、再び嵯峨野の地を五月雨が覆い始めた。塗り込めた夜の中に雨の音が満ちた。池水のみなもが騒いでいる。木々の葉が濡れて燐光のように薄く光り、雨に打たれながら身を震わせている。(ひさし)からしとしとと落ちる雨だれが、ためらいがちの足音のようである。何か花の匂いが流れている。闇の中に庭の景色が彷彿(ほうふつ)とした。――陶子に、今川の親戚筋である渋川の家との縁談がまとまったと父より告げられた、それはちょうど、十日前のことであった。


 陶子は夜空を仰いだ。月もない空に、見えるのはただ闇である。(けが)れを知らぬ漆黒の闇は天へ向かってひたすらに深く広がり、何処(いずこ)で果てるとも知れぬ。地上に音は満ちながら、しかし雨は闇に呑み込まれ、陶子の目はその姿を捕えることは出来なかった。ひとりたたずんで、陶子は夜の中にいつまでも五月雨の音を聞いた。雨は陶子の衣を濡らし髪にこぼれ、今は一糸も乱れず結い上げられた黒髪を、涙の粒となって滑り落ちた。


 翌朝、義弘はいとまを告げ屋敷を辞した。義弘とはその後会う折もないままに、陶子は翌年の春、渋川へと嫁いだ。


 それから、十七年の月日が経つ。夫となった人との間に、陶子は二人の息子をもうけた。息子たちは病一つすることもなく、たくましく成長した。


 義弘が帰らぬ人となったのは、九年前のことである。九州計略をはじめ様々の功により、幕政において存在感を強めた義弘であったが、外様でありながらいつしか将軍家をおびやかしかねない力を持つに至った大内家の存在に、将軍義満はしだいに警戒と猜疑を深めた。それは両者の間にしだいに深い軋轢を生じ、応永六年、義弘は堺にて謀反の兵を挙げたのだった。ふた月もの間、大内軍は籠城し激戦を繰り広げたが、十二月二十一日、幕府軍が折からの強風に乗じ城内に火矢を放つに及び、ついに城は落ちた。義弘はわずかな手勢と共に大太刀を振るって敵中に斬り込み、唯一騎になるまで鬼神の如き奮戦を見せたのち、力尽きて討ち取られた。


 自身も討伐軍を率いて出陣した父から義弘の最期を聞いた時、大内義弘という男は如何に生きるべきであるのか、その道は、いくさ場の敵の刃の下にあるのだと、義弘がかつて自分に向かって語った言葉を、陶子は胸の内に思い起こさずにはいられなかった。


 十七年経った今も、琥珀香はその香りを白磁の小瓶に封じている。香をくれた人はもういないのに、目に見えず触れることも出来ない香りはありありと眼前に残っている、それが陶子には不思議に思われる。そしてあの五月雨の夜以来、陶子は未だ何びとにも、髪を解いた自らの姿を、見せたことはない。


(了)

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