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(十三)

 琥珀香というその甘美な名を、陶子は義弘に教わったのだった。その日、例の如く義弘の部屋の文机を借り、陶子は晩春の吉野の景色を詠もうとしていた。やがて一首を作り上げ、陶子は歌の出来たことを(かたわ)らの義弘に告げた。


「左様、ここは吉野山、ではなく、み吉野の、の方が、耳に柔らかくてよろしいかと」


 背後から机の短冊を覗き込んでそう言いながら、いつもは短冊を手にとって直しをするのであったが、義弘はその時何故か陶子の肩ごしに添削の筆を伸べた。衣が触れ合い、体温がふわりと背にかぶさると共に、何かの馥気(ふくき)が漂って、陶子は思わず、義弘の顔を仰いだ。


「香りが致しますわ」


 つられてこちらを見下ろした義弘の黒いまなざしから、澄んだ香気が葉末(はずえ)を転がる玉露となってこぼれるような、そんな感じを抱きながら、陶子は言った。


「良い香り。伽羅(きゃら)でしょうか」


「ああ、髪につけた香油でござろう。唐のものにて」


 琥珀香、と、義弘はあまり耳慣れぬ名を言った。


「コハクとは、石の琥珀ですか」


 不思議そうに陶子が尋ねた。琥珀は日本でも古くから香として薫かれているが、義弘の言う琥珀香とは薫き物ではなく、琥珀から採った香り高い油のことであった。


「でも、木や花ならともかく、石から香料が採れるのですか。絞るというわけにはいかないでしょう」


「実はわたしも製法は存じぬのです。が、琥珀はそもそも木の脂が固まったものにござれば、採れるのでありましょう」


「世の中には不思議なものがあるのですね。ね、権大夫様、その琥珀香というもの、わたくしにも少しつけていただけませんか」


「よろしいですよ」


 義弘は白磁の小瓶を取り出して来た。水瓶(すいびょう)に似た細口の瓶で、繊細な形に唐の匂いが漂った。


「香油は練り香などよりもずっと香りが強うござる。つけ過ぎるとのちのち難儀致します」


 などと注意を促しつつ、口を開け、陶子の手を取って掌に一滴、たらした。馥郁(ふくいく)たる香気がたちまち、泉のように湧き上がった。陶子の知っているどの花ともどの香木とも、その香りは異なっていた。清らかに深く、例えようもなく高貴な香りだった。そしてその鮮やかさ。わずかに吸い込んだだけで香気が身の隅々までもを浸すようで、陶子は浄土に咲く幻の花を眼前に見る思いであった。香りの広がった両の掌を陶子はすり合わせてみた。香油と言うものの肌触りはむしろ水のようにさらりとして、そして肌の温みや汗と感応するのか、手をこするにつれ、琥珀香の香りは雲のように種々に変化した。


「楽土に住まう天女の肌は、きっとこのような香りでございましょうね」


 陶子は目を閉じ、うっとりとした吐息を唇の間に洩らした。


「天女の肌とは、これは陶子殿も(えん)なことを申される」


「この世の憂さ辛さに(けが)されたことのない女性でございますもの。この香りはそういう者にふさわしゅうございますわ」


 掌で頬を包みながら陶子は答えた。目を閉じ唇には三日月のような柔和な笑みを浮かべ、琥珀香の馥気に導かれて陶子自身が楽土の天女に変じたようであった。


「お気に召したのであれば、これは陶子殿に差し上げましょう」


 口を元どおり固く閉め、義弘は陶子の手に小瓶を握らせた。高さは三寸ほどの、手に隠れそうに小振りのものながら、胴には一面、丹念な細工で唐花の浮き彫りが施され、乳白色の(うわぐすり)がしっとりと肌になじんだ。


「でも、珍しいものなのでございましょう? いただいてしまってよろしいのですか」


「気になさらずに、お受け取り下さい。――女の方が使うには、少々香りが堅いかもしれませぬが」


 ――それが、四日前のことであった。そしてその、義弘よりもらった琥珀香を、陶子は今夜ここへ来る前に密かにこめかみにすり込んで来たのだった。指を上げ、義弘は再び、こめかみの後れ毛を小さく掻き上げた。指先はそのまま陶子の髪の中に遊び、躊躇(ちゅうちょ)のような、逡巡(しゅんじゅん)のような、緩慢な仕種を繰り返した。指がひと梳き髪を掻き上げるごと、琥珀香は夜の記憶のように肌からほとびて匂い立った。


 義弘は陶子を見つめ何も言わなかった。陶子には、元より言える言葉はなかった。ただこちらを見つめる切れ長の目の、目尻に射した血の赤みを、瞳の黒さを、その中に映る自らの影をじっと見つめた。義弘の髪に未だとどまる残り香と、陶子の肌に鮮やかに匂う香りとが、結び合い、狭霧(さぎり)となって二つのまなざしを繋いだ。


 突然、陶子が引き裂くように視線をそらした。張りつめた糸が切れたように、目を背けるなり陶子は今にもその場に崩折れるばかりの急激さで、顔をうつむけた。光を激しく乱舞させて、黒髪がなだれを打って膝に落ちた。義弘の指に絡んでいた髪も身をよじらせて逃れ、一閃の瞬きをひるがえして落下して行った。


 不自然な静寂が、(おり)のように部屋に沈んだ。髪の向こうに義弘の戸惑う気配がかすかにしたが、その表情までは、影に滲んで窺うことは出来なかった。黒絹の縦糸の隙間から見えるのは、かろうじて灯火の炎のゆらめきだけだった。そして陶子は、波となって突き上げる胸の苦しさに負けて泣き出してしまわぬように、黒髪の覆う薄闇の中に身を沈め、両手を固く握り合わせて唇を噛みしめた。

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