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(十二)

 陶子の目を覗き込み義弘は声をひそめた。何かいつもの義弘ではないようだった。確かに義弘には少し強引なところがあった。例えば酒の席で、女たちが怖がって悲鳴を上げているところへ容赦もなく、いくさ場での血なまぐさい体験談を語って聞かせては面白がったりしたが、けれどもそれは、あくまで(ひょう)げての上でのことであった。今の義弘は、とてもそうとは見えなかった。ふざけているのではないのに、声音や物腰は普段どおりの穏やかで優しい義弘であるのに、陶子の困惑など歯牙(しが)にもかけず髪を解くことを強いるなど、陶子には何もかもが解せなかった。言葉を失って、陶子はただ義弘の瞳を覗き込むばかりであった。吸い寄せられそうに黒く静まった瞳が見つめ返していたが、その漆黒の中に何かを読み取るには陶子は若過ぎた。


 陶子の戸惑いはそのままに、義弘は陶子の手を取ってその場に座らせた。長い腕が伸びて、体をすっぽりと抱きかかえるような格好で義弘は陶子の背に両腕をまわした。頬が迫って額に体温が羽のように触れた。雨音がいっとき、耳元に高くなり、そして遠のいた。ゆっくりと、義弘が体を離した。手に鴇色(ときいろ)の元結いがあった。解かれた髪が、崩れ、背の上に広がった。通り過ぎる五月雨にも似た、かすかなすれ音がした。


 義弘が櫛箱を引き寄せた。梳櫛(すきぐし)を取り、陶子の髪にあてた。頭頂に整えられた仄白い分け目を源泉に、黒髪は頬をふち取って肩に落ち、そこからふくよかな湾曲を見せて背中に下りている。室内にはさほど明るいとも言えぬ灯明が一台据えてあるきりで、しかしつややかな髪はその薄明かりを充分過ぎるほど吸い、星雲のような仄かな光を一面に(まと)っていた。


 丸く削った櫛歯が地肌を心地良く掻いた。櫛は耳をかすめ肩に落ちて止まり、義弘はそこで櫛を手前にたぐった。背の上に流れていた髪が掻き寄せられ、胸元に落ちた。もう一度、櫛があてられた。櫛歯が地肌を掻き、耳の後ろを通って肩で止まり、そして新たな髪が胸に落ちた。


 髪は頭頂より一途に流れ落ち、膝の上で柔らかにうねってよどみを作っている。おもてには光がさざなみ立ち、あたかも無音の世を流れる滝のようであった。黒色の流れに、義弘は手を浸した。掌に受け、すくい上げると、髪は広がって掌からこぼれ、義弘の腕をつたった。手首から肘に向かって肉が盛り上がり薄青く血脈が透いている、その(たくま)しい腕に黒髪の藻草はしどけなく絡みつき、黒い血の流麗な線を彩った。黒髪の闇の下に、白い肌と青い血脈とが冴え冴えと映えた。


 髪が腕をつたい落ちるのも構わず、義弘は掌に残った髪に櫛をあて、胸元へたぐり寄せるようにして毛先へ櫛を流した。髪は織り出された黒絹となって櫛に導かれ、そして櫛歯が抜けると共に、壊れた夜の闇のように、また胸の上になだれ落ちた。何もかも、義弘の為様(しざま)は逆しまであった。髪を()くのならば義弘は陶子の背後に座るべきであった。そしてそもそもの流れに逆らわぬよう、背中へ向かって梳き流すべきであった。そうであるべきなのに、しかし義弘は陶子と向き合わせに座り、胸の方へ梳き捨てながら、先程までは梳き直すまでもなく結い整っていた陶子の髪を櫛でもってわざわざ乱しているのだった。その奇異を、しかし陶子は(とが)めるでもなかった。義弘もまた詫びるでもなかった。いつしか、陶子は両の肩から乱れ髪を黒衣のように纏い、しかしさみだれ髪に乱れてなお、陶子の髪は薄闇の中に美しかった。そして陶子と義弘の他には誰ひとりおらぬこの部屋に、二人の有様を見咎める目はなかった。


 義弘の手がふと伸びた。額の生えぎわから目の上にほつれていた後れ毛を、そっと掻き上げた。耳に、くぐもったすれ音がした。磨いた瑪瑙(めのう)のような爪がこめかみに触れて、陶子はかすかに息を呑んだ。まつげが震えた。頬が汗ばみ、一瞬、香気が、陶子の肌から匂い立った。仄かに甘く、一点の涼しさを含んで、梅花を吹き抜ける寒風の匂い。義弘の髪に漂ったのと同じ、それは琥珀香の匂いであった。

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