(十一)
* * * * *
五月雨の音が部屋に立ち込めている。音調も抑揚もないまま静けさだけを奏でて、陶子の白い手と、櫛と、櫛歯を噛む黒髪とを包んでいる。陶子は耳だらいに水櫛を浸した。湿した櫛で撫でつけると、髪は露を含んで、灯火の光が幾千の金糸となって流れた。地を覆って降り込める雨脚が、髪のおもてに束の間、現出したかのようだった。
水櫛を置いて、再び梳櫛を手に取った。前髪を撫でつけ、小鬢、こめかみ、首筋と櫛をあて、順ぐりに頭頂へ梳き上げては手の中に束ねて行く。髪を掻いて奔放に滑る櫛のあとに、光の糸は影となって従順につき従った。濡れた髪が、指の間に清流のような感触を残した。
髪を一束、陶子は指先に絡めてみた。柳の若枝のようにしなやかな、弓弦のように力強い張りを持った、若々しい髪だった。いくさ場に馬を駆る血の高揚が黒髪の一筋一筋に脈打つように思われた。指をゆるめると髪束はたちまち鞭のように身をしならせて逃れ、逃れるはずみに先端が、陶子の頬をかすめた。ひんやりと冷たく、しかし花のように優しい打擲であった。揺れた髪の間に芳香が匂った。仄かに甘く、甘い内に一点、涼しく冴えた香りを含んで、梅花を吹き抜ける寒風を思わせる匂いである。髪に刷かれた香油の匂いに、陶子はそっと、頬を寄せた。陶子の仕種を知ってか知らずか、義弘は身じろぎもせず、無言で座っている。
陶子は、頬を引いた。あとは銀朱の塗り櫛の髪をたぐる柔らかな音、髪と髪がすれ合うかそけき音、やがて髪はまとめ上がり、元どおり、二つ折りの髷に形を収めた。もとどりを作法どおりに束ね、結び目を固く絞った。水櫛で後れ毛を撫でつけ、髪はすっかり整った。
「権大夫様、結えましたわ」
陶子は声をかけた。
「かたじけない、お手を煩わせ申した」
礼を述べて、義弘は肩ごしに陶子を振り仰いだ。こちらへ向けられた義弘の顔が、驚くほど間近かった。筆で描いたような流麗な眉の一筋一筋、目のふちにうっすらと射した血の色、いくさで受けたのか左頬に細く残る傷痕、このふた月ほとんど毎日のように目に留めながら、心には明確に留めていなかった、そうしたごくささやかな特徴がはっきりと映り、はっと胸を衝かれて陶子は義弘の面輪を固唾を呑むようにして見つめた。こんな時、普段であればすぐに破顔し、戯言など言い出す義弘のはずであった。しかし今、義弘は笑わず、戯言も言わなかった。自分を見つめる陶子と対を成すかのように、陶子の面輪をじっと見つめ返した。
「陶子殿」
しばしの沈黙と仰視のあと、陶子の目を見つめたまま義弘は低く言った。
「櫛を下さい。今度はわたしが、陶子殿の髪を梳いて差し上げましょう」
「――えっ」
ぶしつけとも思われる義弘の言葉に、陶子は驚き戸惑った。
下賤の女ならいざ知らず、身分ある女性にとって、髪の解け乱れた有様を人目に晒すことは考えられなかった。髪を梳き整えているところを父親が見るのも好まれないというのに、ましてや客人に髪を梳かせるなど慎みある女性のすることではない。如何に周防が辺土と言って、大内家は王朝の御世から国衙を治めて来た名家である。その当主たる義弘がそれを知らぬはずはないのに、いきなりそのような無礼を申し出た、その意図をはかりかね、陶子は頬を赤らめ首を振った。
「おたわむれはいけません。権大夫様、わたくしを子供とお思いになって」
「違います。そうではない」
義弘は言下に陶子の言葉を否定したが、しかし、では何故なのかとは言おうとしない。陶子はますます困惑してひとりで別な言葉を探した。
「はしたないとわたくしが叱られます。もし誰かに見られたら……」
言いよどみながら陶子はうつむいた。義弘は陶子の方へにじり寄った。まだ膝立ちのままであるため、うつむいた陶子の目はちょうど、義弘の顔をまともに見下ろす格好になった。
「もう刻限は遅い。誰も参りませぬ。またたとえ参ったとしてもここには入れませぬ。案じ召さるな」