第五幕 : 夜がふたりを変え始める
吐き出した嗚咽の名残がまだ喉の奥に張り付いている。
沙羅は膝を抱えたまま、かすれた呼吸を繰り返していた。
翔也の家のリビングは、深夜の静けさを濃く湛えている。
月光はさっきよりも強くなり、床の木目を銀色に濡らしていた。
ノートパソコンの画面は暗転したままだ。
しかし、焼き付いている映像はふたりの脳裏の中で何度でも再生される。
―翔也の息遣い。
―美咲の甘い声。
―触れ合う音、湿った体温。
誰も止められなかった。
そして、誰も救ってはくれない。
静寂がしばらく続いたあと。
「……ねぇ、悠真くん」
沙羅が顔を上げた。
目は真っ赤に腫れて、涙の痕が頬に何本も残っている。
それでも、その奥にある光だけはさっきと違っていた。
透明ではない。
濁っている。
底が見えない。
「ふたりは……私たちのこと、最初から馬鹿にしてたの?」
「……そうだな。きっと……全部、最初から」
悠真の声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
感情が深く沈みすぎると、逆に波を立てなくなる。
「嘘みたいだよ……あんな……あんな顔、美咲さんが……」
沙羅は両手で頭を抱え、必死に呼吸を整えようとする。
「翔也だって……あんな声……私、知らない……」
言葉が震えている。
でも、その震えの奥には別の熱が渦巻いていた。
「沙羅……」
「ねぇ悠真くん」
沙羅はゆっくりと体を起こし、悠真の方へ向き直る。
「このまま許すの……?」
その問いは、刃物のようにまっすぐだった。
悠真は答えない。
だが、沙羅の視線と重なった瞬間― 沈んでいた感情がもう一度浮上してきた。
胸の奥に溜め込まれた痛みが、別の形に変わり始めている。
その変化を悟ったのか、沙羅は小さく息を吸った。
「私……もう戻れないよ」
静かに、はっきりと言う。
「翔也を……信じてたのに。全部裏切られて……全部見せつけられて……」
肩が震える。
でも涙はもう落ちない。
沙羅は涙を使い果たし、その代わりに黒い決意を宿した。
「だから……復讐しようね、悠真くん」
その声は薄い笑みを帯びていた。
壊れた笑みではなく、何かを選んだ人間の微笑。
逃げる道を捨てた表情だった。
「俺も……もう、耐えられない」
悠真は椅子からゆっくり立ち上がり、窓際へ歩いた。
カーテンの隙間から外を見下ろす。
静まり返った住宅街。
街灯の光がアスファルトを斜めに照らし、影がゆらゆら揺れている。
「美咲は……俺を裏切った。
話もしないで……あんな顔を他の男に向けて」
掌がじんと痛む。
握りしめすぎて爪が皮膚に食い込んでいた。
「……許せるわけ、ないだろ」
その呟きに、沙羅が近づいてきた。
距離が自然と縮まり、ふたりの呼吸が静かに重なる。
沙羅の声はかすかに震え、けれど芯のあるものになっていた。
「全部……奪い返そう。
私たちの気持ちも、時間も、未来も、全部壊されたんだから」
月明かりの下で、沙羅の横顔が淡く浮かび上がる。
頬の涙の跡が光を反射し、彼女をより弱く、より強く見せた。
「ふたりでやるんだよ。
ひとりじゃ、きっと壊れちゃうから」
その言葉は、まるで誓いのようだった。
悠真は目を閉じ、深く息を吸う。
胸の奥にこびりついた痛みと怒りを確認するように。
「……わかった。
沙羅、一緒に堕ちよう」
沙羅は小さく、けれどはっきり頷く。
ふたりの決意が重なった瞬間、
翔也の家のリビングはただの部屋ではなくなった。
そこはもう、復讐のはじまりの場所。
戻れない夜の入り口。
外では風が吹き、どこかでカラスが鳴いた。
その声はまるで――
この夜の暗い行いを祝福するように聞こえた。




