第一幕:真実
妻の美咲が作る味噌汁は、いつも決まって少し濃い。
それなのに、その日の味噌汁は妙に薄かった。
出汁の香りも弱く、舌の奥で味が消えていく。
ただの味付けミス。
そう思えば終わることを、俺はなぜか終わらせられなかった。
美咲は椅子に浅く腰掛け、スマホを両手で包み込むように握っていた。
画面の光が頬を照らし、そこだけ別の世界に属しているみたいだった。
「今日、会社どうだった?」
問いかけても反応が半拍遅い。
目だけがスマホに吸い付いて離れない。
「ん……普通。ちょっと疲れただけ」
その声も、どこか違う。
俺の知る“美咲”がいなかった。
やがてテーブルに置かれたスマホが震えた。
ふと覗いた画面には──
〈翔也〉
その名前を見た瞬間、背中を冷たい指先でなぞられたような、いやな感覚が走った。
翔也。俺の親友。
高校から十年以上、互いの弱さも笑顔もすべて晒してきた仲だ。
美咲は慌ててスマホを伏せた。
その仕草は、隠したいものを隠す人間の動きだった。
違和感は、その瞬間に確信へと変わった。
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■ 妻のスマホが語る“裏切り”
真夜中。
美咲が寝息を立て始めた頃、俺はゆっくりと手を伸ばした。
盗み見る行為がどれほど後ろ暗く、卑怯で、惨めなのかはわかっている。
だが、それでも真実を知る方が怖かった。
画面ロックのパスは知っていた。
夫婦だから知っているはずの、当たり前の番号。
メッセージアプリを開いた瞬間、胃の奥が落ちていく。
指先が震え、息が止まった。
〈早く会いたい。今日は旦那が遅い〉
〈昨夜の続きがしたい。あなたのこと、止められない〉
送信相手の名前は、翔也。
絵文字のハート。
通話履歴に残る深夜の長い通話。
添付されている見たことのない下着姿の写真。
頭の奥で、何かが静かに壊れた。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、心が音もなくひび割れていくような虚無だった。
⸻
■ 翔也の家へ
翌日、俺は会社を休んだ。
布団の中で考え続けても、結論はひとつだった。
──翔也に会わなければならない。
昼下がりの空気は湿っていて、生ぬるい風が頬を撫でた。
翔也の家の前に立つと、胸が押しつぶされそうな緊張が襲う。
けれど、ここで引き返す選択肢はなかった。
インターホンを押すと、しばらくしてドアが開いた。
「……あれ、悠真くん?珍しいね。どうしたの?」
姿を見せたのは翔也の妻──沙羅。
二十代後半とは思えないほど柔らかい雰囲気があり、
少し幼さを残すその声は、
こ気味よく弾むように耳に残る声だった。
彼女は突然の訪問にも警戒を見せず、
「上がってよ」といつもの笑顔を向ける。
リビングに通されると、午後の光が白いカーテン越しに差し込み、
柔らかな影を作っていた。
コーヒーの香りが部屋の隅にまだ漂っている。
「ねぇ、悠真くん。……あなたも何か気づいてる?」
沙羅はカップを両手で包み込み、少し震える声で言った。
「……気づいてるって?」
俺がそう返すと、沙羅はゆっくり視線を落とした。
「最近、翔也……変なの。
帰りは遅いし、スマホを触る手が妙に早くて。
画面を見られないようにするの、気づいてるんだよ」
喉の奥で言葉が詰まった。
沙羅の言葉は、まるで俺自身の状況をなぞるようだった。
「もしかして……悠真くんの奥さんと……」
言いかけて、沙羅は泣きそうな顔で口をつぐむ。
その沈黙が、答えよりも雄弁だった。
美咲のスマホで見た現実。
翔也の不可解な行動。
沙羅の不安。
すべてが一つの点でつながった。
──裏切られていたのは、俺と沙羅の二人だった。
⸻
■ 共犯関係の始まり
沈黙の中、沙羅が絞り出すように言った。
「……どうするの?このまま……黙ってるの?」
彼女の目は紅く濡れて揺れていた。
悔しさと怒りと悲しみが、すべて混じっていた。
「……復讐、したいか?」
俺が低く問うと、沙羅は小さく震えながらも、確かに頷いた。
「したい。私だけが傷ついて終わるなんて……嫌」
その瞬間、俺たちは“同じ側の人間”になった。
被害者であることを共有した者同士。
だがそれは、光ではなく闇で手を結ぶ行為だった。
テーブルの上の二つのコーヒーカップからは、
もう湯気が消えていた。




