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第9話

よろしくお願いします!

 午後三時過ぎ、遠くで一度だけ救急隊のサイレンが鳴り、途切れた。その切れ目を縫うように、路上の歓声が悲鳴へと反転するのが、救急外来のガラス越しにもはっきり伝わってきた。


 「倒れた! 配信者が!」


 呼び声に、サラの足は考えるより先に動いた。自動ドアを抜けると、夏前の熱気がむっと頬に貼りつく。搬入口脇のアスファルトに、人の輪が硬い壁のように立ち上がっている。


その中心で、黒いキャップの男が背をのばせず横たわっていた。リドだ。胸元を見下ろすスマホのレンズはまだ配信を続け、


コメント欄の〈大丈夫?〉〈やばい〉


が雨のように流れている。顔面は蒼白、こめかみに汗が粒となって光り、手の甲にはエナジードリンクの空き缶が二本、握りしめられている。


足元にはもう一本が乾いた音を立てて転がり、甘い匂いが熱い道路の匂いに混ざって鼻を刺した。


 「あなた、聞こえますか?」


 耳元で声を落とす。返答はないが、胸郭は規則を乱して上下していた。頸動脈に指を当てる。脈は速く、浅い。サラは顎先をやさしく持ち上げ、頭部を後屈させて気道を確保する。


 呼吸の通り道が確保されたことを確かめてから、人垣へ向き直った。


 「撮影はやめて。救急車をここへ誘導してください。AEDを持ってきて」


 レンズ越しの躊躇が一瞬、空気を鈍らせる。沈黙の刹那ののち、輪が割れ、誰かが駆け出した。サラは脈を数え直し、低く、しかしはっきり告げる。


 「カフェインの摂り過ぎと脱水が強い。今は動かさない。日陰をつくって」


 折りたたみ傘がいくつも開き、影が患者の上に落ちる。カメラの視線が地面を向き、視界が暗くなる。それでも配信が続いている気配に気づき、サラはレンズの軸から半歩だけ外した位置に身を置いた。声だけが画面に届くように。


 「これはハーブドリンクの中毒ではありません。空き缶を見てください。胸のドキドキ、吐き気、脱力――エナジードリンクの過剰摂取で説明できます。意識が戻っても、必ず医師の診察を受けましょう」



 言葉は、画面の向こうの誰かへと同時に、ここにいる誰かへも向けた。うなずく音が人垣の中で小さく伝播し、熱のこもった空気がわずかに入れ替わる。


 赤色灯が建物のガラスに反射し、担架が滑り込む。救急医が到着し、モニターの心拍は山をせわしなく刻む。バイタルを伝え、体位を整え、移乗の合図に合わせて手を添える。


 担架が上がる直前、リドが薄く瞼を上げ、焦点の合わない目でサラの顔を探すように視線を彷徨わせた。


 「おれ……やばいっすか……」


 「大丈夫。呼吸は守れてる。少し休めば戻る」


 必要最小限だけを渡す。それ以上の言葉は、いまは体力を奪う。


 搬入が落ち着くと、院内広報が駆け寄り、報道向けコメントを求めてきた。エントランス脇の小さなボードの前に立つと、記者のマイクが幾本も伸び、シャッター音が乾いた木の実のように弾ける。


 サラは余分な形容をそぎ落とし、線だけを引くように話した。


 「本日の体調不良は、カフェイン過剰と脱水が主因と考えられます。ハーブドリンクとの因果関係は認められません」


 「でも、さっきの配信では『中毒』と――」


と一人が食い下がる。


サラは視線を逸らさず、同じ場所を指し示すように言葉を重ねた。


 「数字は人を安心させることも、追い詰めることもあります。いま私が数えるのは視聴回数ではなく、目の前の脈です。以上です」


 言い切ると、肩の奥で固まっていた筋肉が少し緩んだ。喉の奥に塩の味が広がり、乾いた夕方の空気が肺をゆっくり満たす。


 遠くでまたサイレンが鳴り始めた。デマは乾いた草原のように燃えやすい。火元に水を注ぐ手は、いつだって目立たないし、冷たい。それでも、いま濡らすべき場所は分かっている。サラは静かに踵を返し、再び自動ドアの内側へ歩を進めた。


 薄明の色が失せ、病棟の窓に夜が絡みつくころ、シェアハウスのキッチンは小さな船室のように温かかった。湯気に混じって番茶とミントの香りがゆるく漂い、蛍光灯の白が木目のカウンターに薄く滲む。

 

 窓の外では、再開発のクレーンが黒い影を組み替えていた。ジュンはタブレットを両手で支え、椅子の脚をきゅっと鳴らして画面を皆の方へ傾ける。 


 「見た?」


 再生ボタンの赤が押し込まれ、映ったのはリドの顔。むくんだ頬、荒い呼吸。語尾は弱く沈み、読み上げる言葉の隙間がやけに長い。


 〈体調不良はカフェインの摂りすぎでした。誤った煽りと取材方法で、みなさんを不安にさせました。現場で助けてくれた医療スタッフの方々に感謝します〉


 スクロールに合わせ、コメント欄が泡のように湧いては弾ける。


「救ってくれた看護師さんありがとう」


「あの人落ち着いてた」


来場者がタグ付けした動画も横に並び、紙コップを受け渡すナギの穏やかな手つきが何度もリピートされていた。ナギは反応せず、湯気が消える速さを目で追い、コップの縁に指を添えている。


 ミホが湯呑を差し出した。


 「今日、ありがとう」


 「仕事しただけ」


 サラは短く返し、湯気を胸の奥に吸い込む。温度が喉を通って落ち着いていくのを確かめるみたいに、ゆっくりと。


 指先のかすかな震えが、湯呑の縁で止まった。外で張りついていた熱が剥がれ、汗が微かに引いていく。


 「これ、見る?」


 ジュンが画面を切り替える。匿名掲示板に貼られた支出明細のスクリーンショット。


レヴィック法務部名義の「外部広報協力費」。受取人の欄に、見覚えのある古いハンドルネームが半分だけ残っている。


 「出処は怪しいけど、匂うな」


ジュンが息を吐く。


 「……紙一重、だね」


 サラはつぶやいた。毒と薬。正義と宣伝。事実と編集。どれも同じ瓶に並んでいて、ラベルの貼り方次第で色が変わる。


 今日、路上で自分が差し出した言葉も、誰かの編集で別の色に塗られる可能性を孕んでいる。だからこそ、彼女は最小限の線だけを引いたのだと、湯気の向こうで静かに確信した。


 キッチンの端、サラのバッグの口が少し開き、昼休みに手に取った大学院のパンフレットが白い角を覗かせている。ミホは気づかないふりで台拭きを絞り、水の筋を布目に戻した。


 「どうするの?」


 ジュンが目で問う。


 「まだ、考え中」

 

 サラは笑って覆い隠す。けれど胸の奥では、骨に触れるような固い音がひとつ鳴った。数字に呑まれない言葉を持つために、もう少し深く潜る


――そんな輪郭が、薄い紙越しに透けて見える。


 ふと、ナギがコップを置いた気配のまま姿を消す。階段を上がる靴音もほとんど立てず、夜の屋上へ。


 風がハーブの葉裏を撫で、遠くのクレーンが軋む。月は薄い輪郭で雲を縁取り、屋上の影を伸ばしていた。


 「毒と薬は、同じ瓶に入っている」


 誰にともなくこぼした声は、月のほうへほどけていく。ミホは顔を上げ、階段の暗がりを一瞬だけ見ると、また布巾に視線を戻した。その横顔に、サラは心のどこかで救われる。

 

 誰かが同じ揺らぎを、別の場所で言葉にしていることが、奇妙な支えになる。


 テーブルの上でスマホが震え、ミホから


〈明日の仕込みどうする?〉 


サラは親指で短く返す。


〈いつも通り〉と一言添えた。


デマの炎はまだ燻っている。けれど、目の前の呼吸は今日も確かだ。火に油を注ぐのも、水を差すのも、結局は人の手の仕事でしかない。


 窓を少し開けると、夜の冷気が銀箔のように流れ込み、流し台のステンレスに細長い帯を作る。


 遠くの道路でタクシーが減速し、街路樹の葉がかさりと鳴った。サラは蛇口をひねり、手洗いをもう一度。水はまず冷たく、それから体温に馴染む。手のひらに泡を転がし、指の間をひとさし指でなぞる。


 紙一重の境界は、こうして何度でも洗い直せる


――そう思いながら、タオルの端で指先を丁寧に拭き取った。拭き終えた手は軽く、湯呑の重さを受け止めるのにちょうどよい。


 外では、クレーンが最後の身じろぎを終え、街の音が一段落する。キッチンの時計の秒針が静かに進み、四人の呼吸が同じ速度で上下する。サラはタブレットの黒い画面に映る自分の影を見て、そっと息を吐いた。


 毒にも薬にもなり得る世界で、選ぶのはいつも小さな所作だ。配信のレンズから半歩外れること、言葉を一行だけに絞ること、そして手を洗うこと。


 明日も「いつも通り」に仕込むために、いまは静けさを体に戻す。ミホが電気ポットのスイッチを落とし、ジュンがタブレットを伏せ、ドアの向こうでナギの足音がひとつ消える。



 夜はまだ浅い。けれど、炎の色はさっきより確かに薄いと、サラは思った。



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