第八話
よろしくお願いします
六月の夜明けは薄藍で、病棟のブラインド越しに滲んだ光が、更衣室の白い壁を冷たく照らしていた。
サラは金属製のベンチに腰を下ろし、肩から滑り落ちそうな疲労を指先で押さえるみたいに、制服の皺を一本ずつなでて畳んだ。
消毒液の匂いは指の腹にまで染み込み、アルコールで荒れた手のひらが少しひりつく。耳の奥では、点滴の滴下音がまだ規則正しく落ちている。
ポツ、ポツ
――夜を貫いてきた音が、明け方の静けさに反響していた。
ポケットからスマホを取り出すと、ブルル、と短い震え。
画面の明滅に、炎の絵文字が押し寄せる波のように踊った。
〈#ハーブドリンク中毒〉
〈#鶴見坂危険飲料〉
見慣れたテントとポスターの写真が、過度なコントラストで色を増し、緑と金の層はサムネのなかで毒々しくさえ見える。
吐き気、めまい
――短い文言が切り取られ、同じ文体のまま複製されては拡散されていく。字幕には大きく
「毒の証拠」
流れていく数字は、夜勤の残り火に油を注ぐようだった。
「……毒でも薬でも、紙一重なのに」
マスクの内側で湿った声は、布に吸われて消えた。グループのトークを開く。
ミホの「気を落とさないで」
ジュンの「事実だけ書く」
その下に、ナギの「平気」
たった二文字の平仮名は、氷の薄さを想像させる。踏めば割れるかもしれないのに、浮かべておくしかない足場。
更衣室の蛍光灯がジジ、と一度鳴った。サラは制服をロッカーにしまい、Tシャツの袖を整える。鏡に映る顔は、夜勤の色を薄く引きずっているが、眼だけは冴えていた。
通知の赤い数字は増え続ける。けれど、指はスクロールをやめて電源ボタンを押した。いま必要なのは沈黙だ、と体が先に決めている。
病棟の扉を押すと、朝の匂いが変わる。薬品とリネンの混ざった空気から、通路の掃除用洗剤の匂いへ、そして自動ドアを抜ければ、街の湿った息。
駐輪場のチェーンがこすれる音、遠くの踏切の警報、バスが停留所でブレーキを吐くシューという音。昨夜の雨を含んだアスファルトはわずかに冷たく、スニーカーの底がしゅっと鳴った。
薄い雲から差す光はまだやわらかく、ビルの窓面に浅く跳ね返る。出勤の人波が交差点で合流し、サラはその縁を縫う。肩のストラップが食い込み、掌の汗で革がしっとりとした。
喉がからからに乾いて、コンビニの湯気立つコーヒーの匂いに足が止まりかけた。だが深呼吸だけして歩き出す。
胸の内側に、夜から持ち越した拍動が残っている。それは焦りではなく、次の作業へ移るための合図だ。噂の速度に追いつこうとするほど、足元をすくわれる。
救急のベッドサイドで、数字が人を救うときもあれば、追い詰めるときもある
――サラは知っている。手で確かめた体温、目で見た皮膚の色、呼吸の深さ。そこから逆算して、必要なものだけを渡すこと。
「今日、自分ができることは変わらない」
自分に向けて、声に出さずにつぶやく。スマホはバッグの奥で眠らせておく。拡散の海に飛び込むのではなく、今ここで波打つ一人ひとりの呼吸を整える。その積み重ねの先にしか、炎の温度を下げる方法はない。
薄藍の空が、ゆっくりと朝の色を増していく。横断歩道の白線を踏みしめ、仕事に向かう足取りをほんの少しだけ速めた。
救急外来の午前は、廊下の蛍光灯が白々しい分だけ、ざわめきが耳に刺さった。
トリアージのベルが短く鳴り、ビニール手袋の擦れる音、消毒綿のアルコール臭、点滴スタンドの車輪が床をかすめる金属音
――そのすべてが少しだけ早口だ。
「あのドリンクを飲んだ」
という若者が三人、続けざまに入ってくる。顔色は保たれ、皮膚温も悪くない。脈は速いが、手指の細かな震えは見覚えのある振幅。
カフェイン、そして空腹。サラの頭の中で、既視感の引き出しが静かに開く。
彼女は椅子を引き寄せ、ベッドの高さに合わせて腰を落とす。目線が合う位置まで下りるのが第一歩だ。
「いつ飲んで、何と一緒に?」
「空腹で二杯。あと、コンビニの栄養ゼリー」
「僕は唐揚げと、普通のエナドリ二本」
「私はダイエットサプリ」
タブレットに淡々と打ち込む。胃部不快、軽度の動悸。指先の酸素飽和度は問題なし。腹部圧痛なし、口腔内異常なし。
医師の指示がイヤホン越しに届き、サラは点滴の速度をわずかに絞る。塩をひとつまみ落とした白湯を差し出し、ペースを示すように自分も呼吸を一拍ゆっくりにした。
「SNSで見て怖くなっちゃって……」
最年少の子が、申し訳なさそうに笑う。
「怖くなるのは普通。怖いときに来てくれたのは正解だよ」
サラは声の高さを半音落として続ける。
「でも今日は、『食べ合わせ』が身体の声を上書きしたかな。空腹にカフェイン、油ものやサプリを重ねると、胃は混乱しやすい」
安心させたいのではなく、次にどうすればいいかを渡したい。過不足のない文に必要な温度だけを足す。これが彼女の癖で、矜持でもある。
うなずくたびに、患者の肩の力がわずかに解けていくのが見て取れる。
外の待合から、甲高い声とカメラの起動音が断続的に届いた。黒いキャップにサングラス、早口の口上――炎上系配信者のリドだ。
「被害者の声、集めてます! あの緑の液体、劇物。飲んだ相手は――」
看護師長が静かな口調で院内撮影禁止を告げても、彼はマイクを押し出す角度を変えただけで後退しない。ガラス越しに突き出されたロゴ入りマイクが、水槽の中の魚を突く棒のように見えた。待合の空気がざわりとさざなみ、スマホを握る指が増える。
サラは一歩踏み出しかけて、足を止めた。やるべき順番。まずは目の前の滴下速度、次に吐き気の波を読む。白湯の温度を確かめ、眉間の皺を少し伸ばす。
「今、胸の鼓動は?」と患者に問えば、
「さっきよりまし」と返る。
よし、と心の中だけで頷く。患者が担ぐ不安を減らすたび、外の騒音は相対的に遠のく。けれど完全には消えない。戸口のあたりで、敏感な耳だけが拾う種火の音がしている。
昼下がり。搬入口に近い路上で、人垣ができた。遠巻きのざわめきが、スマホのスピーカーから遅れて同じ言葉を繰り返す。
「真実を暴く」
配信のコメント欄には
「中毒確定」
「拡散希望」
が流れ続け、同時視聴は五桁の数字を跳ね上がる。自動ドアの前に立ったサラの胸の奥で、早鐘のような違和感が打った。
言葉は刃物。研がれていれば人を救い、刃こぼれすれば、いちばん近くの皮膚を切る。彼女はポケットの中でガーゼを一枚ぎゅっと握り、内側から脈を数え直した。次に必要なのは、走る準備ではなく、落ち着いて歩き出す準備だ。
点滴ポンプの電子音が一定のリズムを刻み、処置室の時計の針がじわりと進む。サラはベッドサイドの柵をそっと上げ、患者のブランケットの端を直した。窓の外には、朝より少し濃くなった雲が広がっている。雨になるかもしれない。
雨は良い。熱を帯びた空気を一度洗い流す。だが降り出すまでの蒸し暑さが、いちばん苛立ちを増幅させるのも確かだ。
廊下を少年が走り、警備員が注意する声が響く。待合では、誰かが小声で
「ほんとうに危ないらしい」と言い、
別の誰かが「いや、あれは……」と遮る。
言葉は容易に増殖し、輪郭を失い、音量だけを肥大させる。サラは耳をすませるのをやめ、聴診器のベル面を掌で温めた。冷たい金属が肌を跳ね返さないように。
昼食を取るタイミングはとうに逸し、白湯のカップの縁に小さな塩の結晶が残っている。
ふと、さっきの若者が控えめに会釈して帰っていくのが見えた。足取りは来院時よりもまっすぐで、画面を見下ろす角度が幾分やわらいでいる。サラは息をつき、カップを流しに置いた。
水を出す。蛇口から落ちる水は最初ひんやりとして、そのうち人肌に近づく。掌で受け止めていると、外のざわめきが少し遠ざかった気がした。
それでも、搬入口のほうから集まってくる足音は確かに増えている。誰かが何かを煽り、誰かがそれに応じ、誰かがのぼせ上がる。
空気は乾いているのに、湿気のようなものが肺にまとわりつく。サラはタオルで手を拭き、名札を直し、背を伸ばした。
自分の歩幅で、外へ出る準備をする。走らない。息を上げない。目の前の脈を数えるみたいに、足裏で床の固さを確かめる。
自動ドアが開くと、午後の光が薄く差し込んだ。音の層が押し寄せては引き、セミが鳴き始める前の季節特有の、まだらな熱気が肌に張りつく。
サラは一歩、また一歩と出た。人垣の向こうで、誰かの高い声が波頭のように立ち上がる。彼女はその音に急かされず、むしろ逆らうように、落ち着いて歩いた。ひとつ、ふたつ、深呼吸をしながら。
――薄藍で始まった朝は、すでに色を何度も取り替え、午後の白んだ光へ移っている。炎上の赤や、噂の黒や、病院の白に、サラは触れた。
どの色にも染まりきらず、それでも汚れを引き受けるために、手は洗い、また患者の肩に触れる。言葉という刃の前で、彼女が差し出すのは、数えられる脈と、温度のある声だけだ。
これから起こることが何であれ、やるべき順番はもう決まっている。サラは人垣の手前で立ち止まり、呼吸の深さを測ってから、最前列へと歩を進めた。