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第七話

よろしくお願いします

 氷が「チリ…」と溶け落ち、クーラーボックスの底に白い霜だけが残った。


 サーバーへ滑り込んだ最後の瓶がコトリと音を立て、翡翠の液面が静かに揺れる。ミホは喉の奥で小さく息を呑む


――もう後がない。


 そこへ再び現れた副市長・二階堂が、カウンター越しに身を乗り出した。


「市の〈ふるさと納税〉返礼品にどうでしょう? 販路も補助金も、こちらで用意できます」


 提案というより既成事実を告げる口調。周囲がざわつき、視線が一点に集中する。


 人波を割くようにヒカルが前へ出た。黒い名刺の角が昼光を撥ねて鋭く光る。


「副市長、その橋渡しはぜひ弊社に。独占契約を結べば、安定供給は保証できます」


 言外に「街の小さな台所では無理でしょう」と刺すような響きが潜む。


 ナギは蛇口をゆっくり閉め、その二人の前へ静かに立つ。


「量を追えば力は枯れます。僕たちが大事にしたいのは利益ではなく、共生なんです」


 水面のように澄んだ声だが、芯には炎が宿っている。列のざわめきが吸い込まれ、瞬間、ひそひそ声すら消えた。


 ヒカルは目尻で笑みを保ったまま低く返す。


「理想論で市場は動きませんよ」


 その言葉を合図にしたように、サーバーの液体がゆっくり淡金色へ変わった。ハーブの揮発油が温度差で再結晶し、翡翠に蜜の光が溶け込んでゆく。


 「わあ、色が変わった!」


――最前列の子どもが声を上げる。


フラッシュが弾け、スマホが一斉に掲げられた。二階堂は琥珀と翡翠が層を成すグラスを興味深げに傾けるが、


「まずは安定供給を」


と短く残し、取り巻きを連れて去った。ヒカルも


「次の機会に」


と肩を竦め背を向ける。行列は半減し、熱気だった通路に隙間風が通った。


 ミホは舌に焦げつくような失望を噛みしめたが、ナギは変色したドリンクを陽に翳し、蜂蜜の輝きを楽しむように目を細めた。


「大丈夫、効能は落ちない。むしろ芳香が強くなってる」


 淡く漂うミントの甘涼しい香りが胸の痛みを洗い流す。ミホは背筋を伸ばし、カウンターに戻った。


 客席の奥でDJクロロが新しいビートを流し始める。低音が地面を揺らし、群衆の肩がリズムで弾む。金と緑に光る液面がスポットライトに照らされ、再び次の物語を呼んでいた。



---


 夕焼けがアーケードの天井を茜に染め、提灯が淡いオレンジを灯し始める頃


――再び列が伸びていた。きっかけは十五秒のSNS動画。翡翠から蜂蜜へ揺らぐ液体と客のどよめきが拡散し、通知音がスマホを震わせたのだ。


 クロロのスピーカーは重低音を刻み、「共生ドリンク!」のコールがリズムに乗って通りを回る。


子どもたちはプラスチックカップを光に透かし、緑と金のグラデーションを指でなぞって歓声を上げる。


若い母親は「映えるわ」と笑い、大学生たちは角度を変えてストーリーを撮影する。二階堂の提案が霧散しても、市民の熱はむしろ高まっていた。


 蛇口から最後の一滴が落ち、ナギがレバーを戻す。


「完売です!」


 ミホの声に列がどっと沸き、自然と拍手が湧いた。ナギは深々と頭を下げ、ミホも続いて腰を折る。


「ほんとに終わり? もっと飲みたい!」


「次も絶対来るからね!」


 名残惜しむ声にミホが謝りかけると、ナギが底に残ったわずかな液を紙コップにすくい、一杯をふたつに分けた。


「スタッフ特権だね」


「乾杯しよ」


 緑と金が混ざり、夕陽を反射して翡翠より深い光を放つ。


「ありがとう、ナギ」


「こちらこそ」


 一口含むと草いきれと甘露が舌を撫で、遠い未来の味がほどけた。


 ふと視線を感じて顔を上げると、通り向こうでヒカルが手帳にペンを走らせながらこちらを窺っていた。ミホと目が合うと、彼は表情を崩さずページを閉じる。


ナギは袖をそっと下げ、白い肌の下の鱗光を隠した。正体を暴こうとする影は間違いなく近づいている。だが――


 テントを畳み始めると、提灯が本格的に灯り、紙の灯籠が夕闇を淡く染める。頭上には昇りたての月。その周囲に薄い鱗雲が浮かんでいた。


アルミポールを束ねながらミホはふと思う。今夜、屋上菜園のハーブはこの月光を浴び、どんな香りを育むのだろう。


 共生という苗は、鶴見坂の真ん中で確かに芽吹いた。翡翠色のしずくを宿す細い茎が、夜風とビートに合わせてそっと伸びる。その軌跡を胸のどこかで感じながら、ミホは静かに空を仰いだ。



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