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第六話

よろしくお願いします

 五月末の朝。梅雨前線はまだ遠く、夏の入口を思わせる強い陽射しが、鶴見坂商店街のアーケードを照らしていた。


ポリカーボネート屋根に乱反射した光は、朝露を抱えた白いテントに淡い虹を走らせる。ミホは肩に担いだアルミポールの冷たさに少し身を縮めながら、ジュンと声を掛け合って骨組みを組み上げていた。


 仮留めのピンが「ガチャン」と嵌まった瞬間、胸の奥に小さな火花が弾けたような感覚が広がる。


焼きそばの焦げた香りとスパイスカレーの湯気が混ざり合い、クラフトビールのホップ香が鼻をくすぐる。通りでは木工職人がトンカチを鳴らし、大学サークルの学生たちが手縫いのバッグを並べている。


生花リースが風に揺れる隅の一角。今年拡張された〈街農ブース〉の一角に、彼女たちの“異色”の出店が加わる。


「ポール、水平取れてる?」


「OK。ジュンの漫画みたいに歪んでないよ」


 冗談を返すと、ジュンはタオルで汗を拭い


「そりゃどうも」


と笑った。風に翻ったポスターには、夜の屋上で翡翠色に光るドリンクのイラストと《緑と鱗のクラフト》の文字。屋上の秘密を知る者にだけ通じる合図だ。


 背後でクーラーボックスの蓋が開き、ナギが瓶入りドリンクを慎重に氷へ沈めるたび、緑の液体が光を跳ね返してきらめく。


掌に映る翡翠色の影を見つめながら、ミホは喉の奥に涼しい風が通るような感覚を覚えた。タキオはハーブ束の茎を切りそろえ、サラは古い木箱をレジ代わりに硬貨を並べている。


 「人、来るかな……」


と呟きそうになった瞬間、商店街入口の拡声器が音を弾ませた。


「おはよう鶴見坂! DJクロロがクラフト市をハイにするぜ、準備運動いこうか!」


 跳ねるドラムループがアーケードの屋根を震わせ、ミホの心拍も一段高く弾む。ジュンが親指を立て、ナギが静かに頷く。


その仕草だけで、テントの内部に目に見えない芯が一本通った気がした。今日という物語は、もう始まっている。


 開場ベルの「チリン」という短い音が響くと同時に、人波が一気に流れ込んだ。白いテントの前にもあっという間に列ができ、ミホの視界は色とりどりの買い物袋と差し出される小銭で埋め尽くされた。


「ミント二本、ローズマリー一束、それと緑ドリンクS!」


「次、Mサイズでストロー二本!」


 注文の嵐が飛び交い、タブレットレジの音がタップ音ではなく打楽器のように響く。


 額の汗が視界をぼやかし、脳の奥では蒸気笛が悲鳴を上げていた。ジュンはポスター下で列を整理しながら即興の掛け声を放ち、タキオは紙袋にハーブ束を滑り込ませる。


 その背後ではナギが翡翠色の液体をサーバーから注ぎ続けていた――それが最後の一本だと知っているのは、ミホだけだった。


 列が折り返すほどに伸びたころ、制服姿の副市長・二階堂がスタッフを連れて現れた。


「街農ブースの視察です」


と柔らかな笑み。ミホは慌てて手袋を外し、試飲用のカップを差し出す。


 一口含んだ二階堂は瞳を見開いた。


「爽やかな香りの後に、深い甘みが残る……これは面白い!」


 感嘆の声に拍手とカメラのシャッター音が重なり、列はさらに膨らんでいく。


 安堵の息を吐きかけたとき、横から黒いスーツがするりと割り込んできた。ヒカルだ。


「副市長、弊社で量産と販路をお引き受けできます。ご試飲がお気に召したなら、この場で覚書を――」


 差し出されたタブレットの契約画面が、朝陽を浴びて冷たく光った。ミホの背を一筋の冷汗が這い降りる。ナギのレシピが大手に流れれば、もうここにしかない意味が消えてしまう。


 その緊張を破ったのは、重低音を響かせながら近づくDJクロロのアンプだった。


「みんな調子どう? 鶴見坂でいちばんフレッシュなドリンクはここだ!」


 ターンテーブルが回り、ビートが空気を震わせる。観客の視線がヒカルのタブレットから離れ、拍手と手拍子がテントに向かって押し寄せた。緑ドリンクがまるでステージの主役のように輝き、誰もがその一杯を求めていた。


 ミホはクロロに親指を立て、テーブル下へ潜り込んだ。


氷水の中には、もう数本しか残っていない――けれど不思議な確信が胸に芽生えていた。この熱気と期待があれば、最後の一滴まで、きっと誰かの喉を潤してくれるはずだ、と。



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