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第五話

よろしくお願いします

 五月上旬の朝、まだ桜色をわずかに残す雲が区役所の上をゆっくり漂っていた。


 雨上がりの歩道タイルには薄膜の水面が張り、ビルの縁の光を跳ね返している。ジュンは自販機で買った缶コーヒーを開け、金属の冷たい縁を唇に押し当てた。苦味の強い液が喉を滑っても、脳の奥にこびりついた眠気は剝がれない。


 スマホを開けば、漫画のネームがサムネイルでずらりと並ぶ。吹き出しは空白、コマには自分で付けた赤いバツ印


――なのに、まるで他人の悪意のように刺さる。親指でスクロールするたび胸骨の奥がキシ、と軋んだ。


 そこへ LINE の通知音が軽く跳ねる。


《説明会、代理頼む!》


というミホの短いメッセージに、タキオの


「頼んだぞ」


と笑う絵文字が続いた。ジュンは缶を振り、溜息交じりに笑う。


「ネタ切れの打開策になるかもな」


 ポケットへスマホを滑り込ませると、冷えた缶が指に吸いついた。指先だけが妙に現実感を帯びる。


 区役所ホールに入ると、エアコンの風が乾いた紙の匂いを運んできた。


 蛍光灯はまだ午前の光に勝てず、観覧席は青白い影に沈んでいる。背板に貼られた「鶴見坂再開発説明会」のA3用紙が空調に揺れ、角がカサカサと擦れた。


 ジュンは最後列の端に腰を下ろし、描き慣れたA4スケッチブックを開く。真っ白な1ページ目。 


 その中央に鉛筆でゆっくり「今日の群像」と記す。資料の束をめくる音、スーツ同士が擦れる衣擦れ、ホール奥で唸る空調


――そのすべてを線に変えてやろう。


 缶コーヒーを飲み干し、空き缶を足元へ転がすと、小さく息を吸う。舞台の幕が上がる気配が胸の奥で脈打った。


 壇上の大型モニターが明滅し、黒地にレヴィックの白いロゴが浮かぶ。


 続いて「スマートタウン計画202X」の文字。プロジェクターのファンが低く唸り、スクリーンの縁に埃が舞った。ヒカルが司会台へ進み、マイクを軽く傾ける。


「AIインフラとグリーンループを融合させ、周辺地価を三年で百五十パーセントに――」


 レーザーポインターの赤が図表を走り、光沢のタワーと屋上テラス、無音で離着するドローンが次々に映る。BGMに流れるシンセが未来という単語を過剰に彩った。


 ジュンはページに「冷/温」と書き、矢印で壇上と客席を結ぶ。前列のスーツは頷き、後方の町内会は腕を組む。スクリーンの光に暖められた表面と膝の上に残る冷え


――会場は二層に裂けている。鉛筆の芯が紙を噛み、黒が濃くなった。


 質疑へ移る。タキオが杖の石突きを床にコツンと響かせ、挙手する。


「立ち退き期限は、なぜ前倒しなんだい? 年寄りの再住まいはどうする」


 声は短くても芯がある。ヒカルは即座に笑顔を整えた。


「サポートセンターが個別に対応いたします。より安心な住環境へスムーズに移行できるよう――」


 音だけは柔らかいが、意味は宙を漂ったまま落ちてこない。隣席の老人たちが囁き合い、紙の擦れる音が増えた。


 区議のカズシゲが背筋を伸ばし、手を挙げる。マイクが渡されると落ち着いた低音がホールに行き渡った。


「民意を素通りする開発は、長期的に自治体の負債になります。安全という言葉で急かす前に、対話の工程を具体化すべきです」


 ジュンは「輪郭のある声」と書き添え、口元だけで小さく笑う。


 司会テーブルのベルがカツンと鳴り、ヒカルが会釈しながら話を畳む。


「貴重なご意見として承ります。本日は時間の都合上――」


 ベルの余韻は氷のように冷たく残り、発言の熱を切り取って床へ落とした。ジュンはページの端に鋭い三角形を描き、未来図と今ここにいる人間の呼吸、そのずれをじっと見つめた。


 スクリーンが再び輝きを増し、ヒカルの声色がわずかに硬くなる。


「老朽家屋は耐震性ゼロ、居住安全性は法的基準を満たしません。早期撤去はむしろ住民の安全のためです」


 言葉がジュンの鼓膜を鋲で留めた。ペンが止まり、胸がコマの枠からはみ出す。


「待てよ」


 椅子を蹴って立つ。マイクも持たずに声を張り上げた。


「数字で切り捨てるな! あの家がどれほど人を守ってきたか知ってんのか? 俺の作品だって、あの屋根が――」


 スマホのレンズが黒い瞳のようにこちらを向き、会場がざわめく。ヒカルは涼しい顔で言う。


「クリエイターの情緒は尊重しますが、統計は嘘をつきません」


 係員が静かに肩へ手を置き、ジュンは席へ戻された。喉に溜めた怒りは錆びた鉄の味に変わる。


 説明会が終わる頃、タイムラインに〈漫画家志望が暴言〉という動画が溢れた。レヴィック広報は「慎重に検討中」と声明し、法務部名義の名誉毀損警告がジュンの受信箱へ届く。


 夜。シェアハウスのキッチンには番茶の湯気が立ち、緑茶の香りが漂う。ミホはスマホで拡散状況を確認し、サラは医療用ハサミを布で拭きながら


「法務部って速いね」


と苦笑した。ジュンは椅子の背にもたれ、炎上の渦中の自身を静かに観察している。


「拡散は止められない。でも、使える」


 三人が顔を上げる。ジュンはタブレットを開き、真っ白なページにペンを走らせた。


「事実を漫画にする。スマートタウンの裏側も、俺たちの暮らしも、全部描く」


 言い切ると背筋が伸び、目の奥が久々に熱を帯びた。タキオが湯呑を差し出し、


「描くなら喉を潤しな」


 と笑う。


 同じ頃、レヴィック本社では物件リストがスクリーンに映り、「追加措置」の言葉が飛び交っていた。掲示板には再開発スケジュール表が貼られ、赤いマーカーで囲まれたシェアハウスが象徴のように目立つ。


「広報だけじゃ抑えきれません。追加措置が必要です」


 法務担当の低い声に、クリック音が乾いた室内に響く。次のスライドには〈訴訟リスク〉の文字。ペンが忙しく走り、誰かが小さく息を呑んだ。


 一方、区役所玄関脇の掲示板。昼間配布された再開発スケジュール表が貼られ、赤マーカーで囲われたシェアハウスの区画が真ん中で光る。

タキオはコートの襟を立てて腕を組み、夜風に揺れる紙面を睨んだ。


「負けてたまるか」


 老いた声は小さいが、胸の奥には鉛のような重さで沈む。


 キッチンへ戻れば、ジュンのタブレットに最初のコマが形を取り始めていた。


ペンが黒を置くたび、呼吸は一定のリズムを取り戻す。傍観者だった目には闘志が宿り、鶴見坂の物語は


――音もなく開かれた新しいページの上で、確かに動き出していた。


 ジュンのペン先は止まらない。傍観者だった目が闘志を宿したとき、鶴見坂の物語は次のページへめくれた――彼の手の中で、そして夜の街全体で。



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