第四話
午後の陽射しがビニール屋根を透かし、足元の土を白く照らしていた。規則正しい足音が金属階段を上ってくる。やがて影から現れたのは、濃紺のスーツに身を包んだ青年――レヴィックの社員、ヒカルだ。胸元の社章が陽を受けて鋭く光り、片手には薄型のタブレット。
「調査のついでに視察です。再開発後の緑化モデルに、住民の取り組みを活かせればと」
ビジネススマイルをたたえつつ差し出された名刺は無駄のない動きで、指先まで神経が行き届いている。だが視線がトマト苗で止まった瞬間、瞳の奥が刃物のように細く光った。
「この品種、早熟系ですか? 成長指数が常軌を逸えている」
柔らかな言い回しの下に潜む利害の匂い。
ミホは笑顔で「品種改良の実験中で……」と説明しかけたが、その合間にヒカルの指が葉へ伸びる。触れる寸前、ナギが前へ出て手首を掴んだ。骨ばった手の熱にヒカルの眉がわずかに動く。
「ここでは共生を目指している。数字や利益だけで剪定しないでほしい」
冷えた金属のような声音。
ヒカルは肩を竦め、手を引く。
「ビジネスは結果がすべてです。共生を語るなら、都市スケールで証明しないと」
言葉の端々に優越感が滲む。二人の視線がぶつかり、屋上の風が一瞬止まった。
ミホが慌てて割って入り、雨水タンクを指さす。
「この屋上は雨水を循環させてるんです。ほら、このパイプから――」
声を弾ませながら装置の説明を続けるが、ヒカルの指はすでにタブレットを滑り、数値とメモが淡々と入力されていく。その打鍵音が静けさを不意に切り裂き、ナギは苗を守るように黙って立ち続けた。
***
夕陽がビニール屋根を透かし、赤紫のグラデーションが波紋のように広がるころ。フェンスにもたれたミホは手帳の角を親指でなぞりながら言った。
「フェアに出そう、あのトマト。うちが目指すのは“誰でも育てられる緑”のモデルなんだもの」
静かな声に、ページを押し潰す指先の決意が滲む。
隣のナギは答えず、茜空の高みに視線を投げた。雲の切れ間から白い月が欠けた円盤を覗かせ、昼と夜の境目で揺れる光が、秘めた力と顕す覚悟の狭間を思わせる。喉奥で選択が石のように転がり、息がわずかに荒い。トマト苗の一角に視線を戻すと、葉は日中の光の名残を帯び、柔らかな風にさざめいていた。
「リスクは俺が背負う」
絞り出す低い声。言い終えた瞬間、胸を締めていた輪が少し緩む。
ミホは手帳を抱え直し、真っ直ぐ彼を見つめた。追い風を受けたハーブの香りが髪をわずかに揺らす。
「ありがとう。でも、一人だけに背負わせない。私もやる」
夕映えの中でにじむ瞳が真摯に輝き、ナギは短く息を吐いてその光を胸に収めた。
その頃、下階の窓辺でヒカルの端末が青白く輝く。
――〈珍種入手の可能性有 詳細別途〉
送信を終えた指先がタブレットを閉じると、唇の端がわずかに吊り上がった。薄笑いは夜の帳に溶け、屋上へは届かない。
日が沈みきると、蒼みを帯びた空気が菜園を包んだ。ハーブの花芽が細く揺れ、ミントの甘涼しい香りが夜気へ溶け込む。遠いクレーンの軋みが鉄と風を擦り合わせるように低く響き、ナギは深く息を吸う。タンクの水面がわずかに揺れ、残光を砕いた。
ここには生命を巡らせる小さな循環がある――水と土、そして人と蛇。ナギは手摺りを離れ、まだ温もりの残る土をそっと踏む。ミホも続き、フェア用に区画した苗床を見下ろした。弱々しかった苗は今、濃い緑の葉を重ね、夕闇にも負けず呼吸を繰り返す。
街のざわめきがビルの谷間で滲み、夜鳥の声が高く飛び去る。二人は言葉なく見つめ合い、やがて同時に小さく頷いた。屋上に植えられた鼓動――共生という名の苗は、確かに芽吹き、静かに茎を伸ばし始めていた。