第三話
よろしくお願いします!
四月半ばの朝。濡れそぼったプランターの縁を伝い、雨粒が集水パイプに吸い込まれるたび、かすかな鐘のような音が鳴った。屋上タープの下では、夜気を抱えた黒土がほんのり湯気を上げ、踏みしめる靴底に柔らかく沈む。
ナギは手摺りにもたれ、雨水タンクに映る金色の揺らめきを眺めた。樹脂越しの水脈は小さな川のようで、ここでは水も土も絶えず巡り、命を支えている――その単純な事実が胸に静かな充足を滲ませる。
視線を菜園へ戻すと、ミホが膝をつき、黄変したトマト苗の葉をそっと押さえていた。隣で雨を浴びたバジルとミントが濃い緑を誇るぶん、トマトだけが季節に取り残されたように力なく俯いている。
「やっぱり元気出ないなあ……フェアまでに赤くならなきゃ意味ないのに」
明るく装った声の奥で、吐息だけが小刻みに震える。研究ノートの端に×印を書き込むと、春の冷たい空気もわずかに沈んだ。
「あと三週間しかないんだよね」
ナギは隣にしゃがみ、親指で土を軽く掘り返す。表面は濡れていても根のまわりは乾いていた。夜半の雨だけでは足りない――そんな簡単な診断を下しながら、心の奥では別の解決策が熱を帯びる。
毒液を使えば一瞬で蘇る。しかし前夜の騒動、ジュンの険しい目、そしてミホの揺れる表情が脳裏を掠め、秘密はまだ薄氷の上にあった。
ふとミホが葉を撫でながらつぶやく。
「この子、もしかしたらここが嫌いなのかな。日当たりはいいんだけど……呼吸できてないみたい」
雨上がりの土と葉の匂いが混ざり、湿った芳香が胸に満ちる。ナギは深く息を吸い、鼓動を落ち着かせた。ミホの焦りは染み込む水のように苗へ浸透し、葉を重くしている。
彼女の手をそっと包み込むように覆い、ナギは低く告げた。
「まだ時間はある。水の通り道を整えよう。根が呼吸できるように」
ミホは目を瞬かせ、弱い笑みを浮かべた。「うん、やってみる」
スコップの金属音が集水パイプの滴る音と重なり、雨水が再び巡る気配を二人は黙って聞いた。
けれどナギの指先の内側では、翡翠色の毒液が微かな疼きを宿し続けていた。期待と責任感、そして警戒と覚悟――相反する感情が水面の小波のように揺れ、胸を叩いた。
◇
日が高くなるにつれ、タープ支柱が熱を帯び、遠くのビル壁が陽炎めいて揺らぎ始めた。ミホは汗ばむ前髪を押さえ、つば広帽の端をくるくる弄びながら吐息をもらす。
「特効薬でもあればいいんだけど……」
冗談めいた調子の裏で、乾いた声は根の奥で水を欲しがる植物のように切実だった。ナギは頷きもせず枯色の葉へ視線を落とす。袖を捲ると、淡銀の鱗光が一瞬走った。
「――試すだけ」
掠れる独り言。ナギは爪で指先をわずかに割き、翡翠色の滴をにじませる。陽光にきらめくその液に、ミホが吸い込んだ息を喉で小さく揺らす。
雫が葉脈に触れた瞬間、褪せた緑が深いエメラルドへ転じ、茎が内側から膨らむように張りを取り戻す。葉裏を駆けた脈動が苗全体へ波紋のように広がり、わずか十秒あまりで植物は瑞々しい息遣いを取り戻した。風もないのに若い梢が静かに震える。
「……生き返った」
ミホの瞳が驚きで丸く見開かれ、その輪郭のまま花が綻ぶように笑顔へ変わる。
「ドリンク剤より効きそう。これ、商品化できたりして」
無邪気な冗談が弾んだが、ナギの胸には秘密をさらした歓喜と同時に、冷たい波が寄せた。希望と危うさが一本の綱の両端を引き合う感触。
そのとき、とん、とん――階段を上る足音。夕顔の蔓をかき分けてタキオが現れた。紙袋には自家製の梅干し。
「夏先までは余裕で保つからねえ」
皺だらけの笑顔が朝の光を跳ね返すように明るい。ミホが礼を言いハーブ束を差し出す横で、タキオはトマト苗を見つめ目を細めた。
「おやまあ、一晩でこんなに……? 若いもんは伸びるねえ」
掌に宿るのは純粋な驚きと喜び。疑いの色はなく、その無垢な温度がナギのこわばった肩をわずかに解いた。
真昼の光はさらに強さを増し、翡翠の滴はもう土へ溶け跡形もない。それでも葉には、共生という名の新しい色が確かに乗り始めていた。遠くのクレーンが低く軋む。その不穏な音を背にしながらも、屋上の苗床には静かな鼓動が灯っていた。