第二話
窓から射し込む夕映えが琥珀色の四角を床に落とし、煮込み鍋の湯気に溶けていく。玉ねぎとスパイスが混ざった甘い匂いが部屋を満たし、換気扇の低い唸りがリズムを刻んでいた。ジュンはまな板の上でにんじんを小気味よく刻んでいたが、ふと手が止まる。
ナギが袖をまくり、鍋にかけられたクロスを整えた瞬間、ランプの灯りを受けて彼の前腕に魚鱗のような紋が一瞬だけきらりと反射した。
「おい、今の……何だ?」
ジュンの声が鋭く走る。包丁の刃がにんじんを切り損ね、橙色の欠片が転がり落ちた。室内の空気が一気に冷えたように感じ、サラは鍋の蓋を持つ手を宙で止め、ミホも木べらを握りしめたまま、胸の奥に薄い氷が張る感覚に言葉を失った。
「痕だ」
ナギの声は鍋底の静けさのように低く、揺らがない。
「痕って……ウロコじゃねえのか? 危険生物かもしれないだろ」
ジュンの声は思ったよりも大きく、カレーの甘い蒸気と混ざって棘のように空気を震わせる。彼の胸には、この家を脅かす再開発の不安と重なり、得体の知れない存在への警戒が膨らんでいた。
ナギは返事をせず、シンク脇のバジル苗を手に取った。黄ばんで萎れた葉に彼の指が触れた瞬間、ミホはすっと冷たい匂いを嗅いだ気がした。ナギはゆっくりと自分の指を噛み、翡翠色の液を一滴、葉先へ垂らす。雫は光を受けてきらめき、土に吸い込まれたかと思うと、苗は息を吹き返したように鮮やかな緑を取り戻し、濃厚な香りを放った。
「これは毒だ。同時に薬でもある。俺は、人と自然が共生できる形を探している」
淡々とした言葉の奥に、ミホは彼の必死な思いを感じた。孤独と願いが、湯気の向こうに薄く揺れて見える。
「そんな力で混ざり込んで、本当に共生なんてできるのかよ」
ジュンが吐き捨てるように言う。恐怖と苛立ちが混じり、声色は濁っていた。
サラは蓋を静かに置き、ナギとジュンの間に視線を往復させる。医療の現場で培った直感が告げる――ここで誰かを拒めば、深い溝が生まれる。
ミホは木べらを握り直し、何か言おうとした。しかし喉に絡まる感情は簡単には形を結ばない。未知への好奇心と、この屋根の下を守りたいという思いがせめぎ合い、言葉にならなかった。鍋の中ではルゥが静かに泡を立て、甘い香りを重ねていく。その匂いだけが、四人を細い糸で結び留めていた。
* * *
夜が深まり、屋上には街灯の光も届かない。月だけが淡い輪郭で世界を縁取り、昼間に暖められた土はまだ掌のような温もりを残していた。風がタイムの葉裏をそっと撫でるたび、乾いた香りが吐息のようにこぼれ出る。
ナギは手摺りに肘を置き、鉄の冷たさを指先で確かめながら青白い月を仰いだ。鱗痕の下で血が静かに脈打ち、この場所に身を置いてようやく自分の鼓動が落ち着いた気がする。
「守れるだろうか、この場所を」
呟きは風にさらわれ、ハーブの影に溶けて消えたが、胸の中では波紋のように広がり、自問を続けていた。
階下からわずかな物音が届く。ミホがボールペンを走らせ、今日の出来事をノートの罫線に封じ込める。ジュンはタブレットに新たな線を引き、ペン先の摩擦が小さな電子音と混じり合う。サラは洗濯機の前で制服を畳み、柔らかな糊の匂いに包まれながら鼻歌を口ずさんでいた。生活の気配が屋上の静寂にかすかな温度を与える。
ナギは視線を足元の影に落とした。月光に引き伸ばされた輪郭は人の形でありながら、爬虫類の尾を思わせる揺らぎを帯びている。ここへ来た目的はただ一つ――人と自然の間に広がった溝を少しでも埋めること。そのために、どこまで自分の姿をさらす覚悟があるのか。
と、その時、通りの向こうで小さな光が瞬いた。パチン、と硬質な音が夜気を裂き、刹那のフラッシュがシェアハウスの外壁を白く照らす。ナギは身を硬くし、闇の中に視線を凝らした。黒いスーツの男がカメラを下ろし、胸ポケットの社章を月明かりに反射させながら足早にワゴンへ戻っていく。金属ドアの閉まる音、エンジンの低い唸り。赤い尾灯が路地を染め、遠ざかっていった。
その車内で、男の端末には「対象物件・夜間外観 緊急進捗報告」の文字が点滅していた。ナギには届かない送信音。しかし遠くで鳴るクレーンの軋みが、不吉な鐘のように胸の奥で響く。
夜空を漂う薄雲が月の光を細く裂き、屋上に伸びるナギの影をさらに長くした。握る手摺りの冷たさが、決意を試すように骨に染みる。遠い機械音とハーブの息吹――その対照の上に、彼は立っていた。ナギはそっと目を閉じ、夜気と土の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
――この小さな屋根の世界だけは、守り抜く。
月の光は静かに揺れ、彼の誓いを薄青く照らし出していた。