第十三話
よろしくお願いします
「ヨイサ」
小さな掛け声をタキオの節が拾い、キックが半拍の溜めをつくる。ナギはその溜めに乗り、顔の角度を変えて客席を横切った。
子どもの瞳がまっすぐ返り、年配の男の腕が組みをほどく。ミホの指が譜面を押さえ、小さな輪が描かれる。
汗が襟足を伝う。重さはない。解けるのは筋肉、濃くなるのは迷いの輪郭。光と影の際を踏むたび、内側で微かな電気が走る。
今はまだ、踊りの名を借りた告白で足りる
――問いは生まれては、次の拍で消えた。
空気がひとつにまとまり始めるのを、音で知る。キックと手拍子の位相がぴたりと合う。煙は渦をやめ、細い流れとなって奥へ吸い込まれていく。
袖を返し、足袋の指で板目を強く踏む。半歩、さらに半歩。輪の中へ踏み込む。境界は足裏にまだある。けれど、その向こうからも気配が近づいていた。
その中途。供物の葉に雫を落とした指の奥で、わずかな痺れが弾ける。
汗が一筋、手首を走る。舞台の縁から差し出された布袋が掌に触れた。御神銭――のはずの重み。細く短い痛み。ごく小さな棘が皮膚をかすめる。
袋の口は内側で硬い。拾い上げるふりで返すと、男
――ヒカルが目を伏せた。
紐が首に食い込み、喉仏が一度上下する。
動きが一拍、遅れる。ビートも半拍ずれ、会場の空気が薄く揺れた。沈黙、と呼べるほどの間。
ミホの目がこちらをとらえ、指先が
「大丈夫?」
と問う。ナギは息を深く取り、肩を落としてからもう一度立つ。香りが戻る。痺れは薄らぎ、筋肉の収束がいつもの道を思い出す。笑みも怒りも見せず、袖で指を隠して舞をつないだ。
ヒカルは影へ退き、袋の口を固く押さえる。昇り香に輪郭が溶け、視線だけが離れない。布に小さな湿り
――ナギはその手の内に雫の行方を見た。
照明の白が頬に一瞬強く当たり、瞳は夜明け前の色。良心という柔らかな言葉を置く場所ではない。だが、動悸が舞のリズムよりわずかに速い。客席から
「きれい」
「生き返った葉っぱ、見えた?」
ライブ配信の画面が増え、スタンプが舞台へ投げられるみたいに流れる。能力は映像になり、足は軽く拡散する。
承知のうえで、袖を戻し、最後の型へ向かった。木々が風で一斉に鳴る。蛇香は、どこかへ道を示すように、まっすぐ伸びる。
終曲。
ナギは静かに膝を折り、掌を板に添えた。合図のように提灯が一段明るみ、拍手が瓦を震わせる。
どよめきは熱を帯び、子どもの高い「もう一回」が跳ねる。タキオは目尻を指で押さえ、クロロはターンテーブルをすうっと止め、空に小さな円を描いた。
誰かが「蛇さま」と息のように呼び、手を合わせる。深く頭を垂れる。胸の奥で小さな解放がふっと開き、すぐその上に先ほどの痺れが影のように重なる。薄い膜のような不安が乗った。
ミホが舞台へ駆け上がる。
汗に濡れた掌は昼間と同じ温度で、今夜は少し強く握られた。
「よかった」
唇だけで言う。ナギは返事の代わりに指を重ね、二歩並んで客席を向く。支持の熱が提灯の高さで揺れ、遅れて意味が押し寄せる。
屋台の兄ちゃんが「すげえ」と笑い、年配の女が「これで町内が負けない」と頷く。
音の波が一度引き、また寄せる。その間に、蛇香が喉の奥を冷やした。
舞台裏の薄闇で、ヒカルが手元を胸で隠し、短い連絡を打つ。布袋はもう布ではない。内側の小瓶が汗で曇り、紐が指に食い込む。
〈試料、確保〉
送信の振動が掌へ跳ね返る。顔を表に出さないまま境内を離れ、石段の途中で一度だけ振り返る。灯りの輪の中心、並んで立つナギとミホ。目の端が、ほんの一瞬だけ揺れた。
祭りは続く。蛇香は夜風にほどけ、社殿の板絵が薄金に光る。
ジュンは露店の端で子どもに四コマの描き方を教え、サラは転びかけた膝に消毒をして「しみるのは一瞬」と笑う。
タキオは「昔は川が暴れてねえ」と身振りで流れを描いた。ナギは袖でミホと肩を並べ、端から端までを見渡す。
歓声が届き、拍手が途切れ、また起こる。その波に自分の名は混じらないが、今夜の空気は彼を拒まない。人々は見た。半分だけの真実を、正面から。
夜の終わり、提灯が一つずつ外され、板に汗の跡が残る。ナギは蛇香の灰を指で集め、境内の片隅にそっと落とした。
「帰ろう」とミホ。
「うん」
頷き、石段を降りる手を握る。踊り終えた筋肉が、握り返す温度でようやく落ち着いた。鳥居の向こう、細い月が糸のように張っている。
同じ頃、黒いスーツは社の外の暗がりで車のドアを閉めた。小瓶は白い封筒に入れられ、静かなオフィスの灯りの下で開かれるだろう。
〈提出します〉
――短い既読が灯り、消える。風が御神籤を一枚、石畳の上で走らせた。
ナギはミホの手をもう一度握る。解放の名で見せたものは、ときに同じ名で奪われる。
知っている。それでも今夜、境内の空気は明らかにこちらの味方だった。蛇香の余韻が路地へ細く延び、二人の背を軽く結わえる。遠くで音のない花火が上がり、薄い光だけが空に広がった。
明日、何が届くのかは分からない。今は歩幅を揃える。屋上のハーブがこの熱を吸い、朝に香り立つ
――その気配を胸の奥で確かめながら。




