表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/20

第十三話

よろしくお願いします

「ヨイサ」


 小さな掛け声をタキオの節が拾い、キックが半拍の溜めをつくる。ナギはその溜めに乗り、顔の角度を変えて客席を横切った。


 子どもの瞳がまっすぐ返り、年配の男の腕が組みをほどく。ミホの指が譜面を押さえ、小さな輪が描かれる。


 汗が襟足を伝う。重さはない。解けるのは筋肉、濃くなるのは迷いの輪郭。光と影の際を踏むたび、内側で微かな電気が走る。


 今はまだ、踊りの名を借りた告白で足りる


――問いは生まれては、次の拍で消えた。


 空気がひとつにまとまり始めるのを、音で知る。キックと手拍子の位相がぴたりと合う。煙は渦をやめ、細い流れとなって奥へ吸い込まれていく。


 袖を返し、足袋の指で板目を強く踏む。半歩、さらに半歩。輪の中へ踏み込む。境界は足裏にまだある。けれど、その向こうからも気配が近づいていた。


 その中途。供物の葉に雫を落とした指の奥で、わずかな痺れが弾ける。


 汗が一筋、手首を走る。舞台の縁から差し出された布袋が掌に触れた。御神銭――のはずの重み。細く短い痛み。ごく小さな棘が皮膚をかすめる。


 袋の口は内側で硬い。拾い上げるふりで返すと、男


――ヒカルが目を伏せた。


紐が首に食い込み、喉仏が一度上下する。


 動きが一拍、遅れる。ビートも半拍ずれ、会場の空気が薄く揺れた。沈黙、と呼べるほどの間。


 ミホの目がこちらをとらえ、指先が


「大丈夫?」


と問う。ナギは息を深く取り、肩を落としてからもう一度立つ。香りが戻る。痺れは薄らぎ、筋肉の収束がいつもの道を思い出す。笑みも怒りも見せず、袖で指を隠して舞をつないだ。


 ヒカルは影へ退き、袋の口を固く押さえる。昇り香に輪郭が溶け、視線だけが離れない。布に小さな湿り


――ナギはその手の内に雫の行方を見た。


 照明の白が頬に一瞬強く当たり、瞳は夜明け前の色。良心という柔らかな言葉を置く場所ではない。だが、動悸が舞のリズムよりわずかに速い。客席から


「きれい」


「生き返った葉っぱ、見えた?」


 ライブ配信の画面が増え、スタンプが舞台へ投げられるみたいに流れる。能力は映像になり、足は軽く拡散する。


 承知のうえで、袖を戻し、最後の型へ向かった。木々が風で一斉に鳴る。蛇香は、どこかへ道を示すように、まっすぐ伸びる。


 終曲。


 ナギは静かに膝を折り、掌を板に添えた。合図のように提灯が一段明るみ、拍手が瓦を震わせる。


 どよめきは熱を帯び、子どもの高い「もう一回」が跳ねる。タキオは目尻を指で押さえ、クロロはターンテーブルをすうっと止め、空に小さな円を描いた。


 誰かが「蛇さま」と息のように呼び、手を合わせる。深く頭を垂れる。胸の奥で小さな解放がふっと開き、すぐその上に先ほどの痺れが影のように重なる。薄い膜のような不安が乗った。


 ミホが舞台へ駆け上がる。


 汗に濡れた掌は昼間と同じ温度で、今夜は少し強く握られた。


「よかった」


 唇だけで言う。ナギは返事の代わりに指を重ね、二歩並んで客席を向く。支持の熱が提灯の高さで揺れ、遅れて意味が押し寄せる。


 屋台の兄ちゃんが「すげえ」と笑い、年配の女が「これで町内が負けない」と頷く。


 音の波が一度引き、また寄せる。その間に、蛇香が喉の奥を冷やした。


 舞台裏の薄闇で、ヒカルが手元を胸で隠し、短い連絡を打つ。布袋はもう布ではない。内側の小瓶が汗で曇り、紐が指に食い込む。


〈試料、確保〉


 送信の振動が掌へ跳ね返る。顔を表に出さないまま境内を離れ、石段の途中で一度だけ振り返る。灯りの輪の中心、並んで立つナギとミホ。目の端が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 祭りは続く。蛇香は夜風にほどけ、社殿の板絵が薄金に光る。


 ジュンは露店の端で子どもに四コマの描き方を教え、サラは転びかけた膝に消毒をして「しみるのは一瞬」と笑う。


 タキオは「昔は川が暴れてねえ」と身振りで流れを描いた。ナギは袖でミホと肩を並べ、端から端までを見渡す。


 歓声が届き、拍手が途切れ、また起こる。その波に自分の名は混じらないが、今夜の空気は彼を拒まない。人々は見た。半分だけの真実を、正面から。


 夜の終わり、提灯が一つずつ外され、板に汗の跡が残る。ナギは蛇香の灰を指で集め、境内の片隅にそっと落とした。


「帰ろう」とミホ。


「うん」


 頷き、石段を降りる手を握る。踊り終えた筋肉が、握り返す温度でようやく落ち着いた。鳥居の向こう、細い月が糸のように張っている。


 同じ頃、黒いスーツは社の外の暗がりで車のドアを閉めた。小瓶は白い封筒に入れられ、静かなオフィスの灯りの下で開かれるだろう。


〈提出します〉


――短い既読が灯り、消える。風が御神籤を一枚、石畳の上で走らせた。


 ナギはミホの手をもう一度握る。解放の名で見せたものは、ときに同じ名で奪われる。


 知っている。それでも今夜、境内の空気は明らかにこちらの味方だった。蛇香の余韻が路地へ細く延び、二人の背を軽く結わえる。遠くで音のない花火が上がり、薄い光だけが空に広がった。


 明日、何が届くのかは分からない。今は歩幅を揃える。屋上のハーブがこの熱を吸い、朝に香り立つ


――その気配を胸の奥で確かめながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ