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第十二話

よろしくお願いします

 七月の湿りは、石畳の目地にたまった雨をまだ手放さない。鶴見坂の小さな社は、背の低い森を背負って境内をひらき、鳥居の朱が夕方の光を吸って淡く滲んでいた。

 かつてここは川の曲がり角で、水の機嫌を鎮めるため蛇の御名を祀った


――タキオが若い手伝いにそう語るのを、ナギは聞いていた。乾いた鈴のような声なのに、節の奥に小石の重みがある。


 舞台の袖で、ミホが巻いた紙束を広げる。蛇神舞の進行、転換、照明。指先には、屋上で育てたハーブをブレンドした線香が一本。


灰色の渦を描くように巻かれ、


〈蛇香〉


と名がある。レモンバームとミント、タイムに、ほんの少しだけ秘密の配合。火を入れれば、緑の気配が薄く立ちのぼり、喉に冷たさを置く香りになるはずだ。


「舞台中央の供物台に線香を三つ。風の抜けを読まないと煙が滞っちゃう」


 ミホは声を潜め、氏子の少年に手早く指示を出す。台には榊と塩と水、その隣に屋上のバジルがひと枝。ナギは頷き、白い衣の袖をひと振りして肩の可動域をたしかめる。


 足袋の指で板目を押し、背骨を下から順にほどく。肌の下を、網のような光がかすかに走った。半分だけ見せる準備。半分だけ隠す準備。湿りと香りに身を委ね、呼吸の深さをひとつ落とす。


「無理しないでね」


 軽い調子の言葉に芯がある。ほんの瞬きのあいだ、手が彼の手に重なった。


 温度と骨の硬さ


――確かで、頼りない。


ナギは「うん」と短く答え、指を軽く返す。離れる直前、ミホは笑って火を点けた。緑めいた煙が細く伸び、舞台の四隅へ散っていく。


 境内ではDJクロロが提灯の列の下で機材を組む。祭囃子めいた笛のフレーズに低いキックが重なり、拍が人の歩みの速さに合わせて少しずつ上がっていく。


 タキオは紙垂の付いた竹棒を持ち、行き交う子どもに頭を下げる。


「昔は川が暴れてね」


と笑う声が、綿あめの甘さと焼きとうもろこしの焦げに混じった。屋台の油は夜の気配を濃くし、金魚すくいの水が薄く光を跳ね返す。


 風がひと筋抜け、注連縄の紙垂が揺れる。舞台の板は昼の熱をまだ抱え、足裏にほどよい温度を返した。


 ナギは袖の内で掌を開閉し、脈の速さを指へ伝える。ここで見せる。ここで守る。一本だけ線を跨ぐ


――その決め事を喉の奥で確かめる。


「照明、七番は舞の三拍目で落として」


 ミホの合図に、照明係の青年が親指を立てた。ナギは舞台の縁で一度だけ空を仰ぐ。葉の隙間に、まだ完全には開かない月。


 蛇香の香りが喉を撫で、緊張と解放が同じ音階で響く。耳の端で、クロロのキックが一段深くなった。


「ナギ」


 呼ばれて振り向く。ミホが胸の前で小さく輪を作る


――合図。


 足袋の指先に力を集め、膝を沈める。袖口からひと筋、鱗光が漏れた。誰にも見えない角度で、彼だけが知る微かなきらめき。ざわめきが半歩遠のく。


 暗転を待つあいだ、彼は小さく息を吸う。煙は途切れず、鳥居の向こうから遠い花火の残響が遅れて届く。


 拍が三つ、胸の内で数えられた。二つ目で肩がゆるみ、三つ目で背が立つ。目を開く。音が合図をくれ、闇がほどける。舞が始まる。


 太鼓が二つ、三つ目で提灯がふっと落ちた。浮かび上がるのは舞台だけ。蛇香の煙が緩い渦を描き、ナギの周りに薄い輪をつくる。


 膝をほどいて一歩分起き、肩甲骨の間を開いた。袖が空気を裂き、肌の下で鱗が光を拾う。歓声というより、まず息を呑む音。湿った夏の空気が一瞬冷え、喉の奥へ引き込まれていく。


 半蛇のかたち


――人の骨格に蛇のしなりが宿る。 

 

 腰の捻りで重心は低く、首の送りで視線は高く。子どもの目線に合わせた次の瞬間、鳥居の高さへひらり。


 袖の奥で手の甲の紋が一瞬露になるが、照明の白と薄煙が境界をほどよく曖昧にしてくれる。ここまで。ここから。決めてきた線に、拍でそっと触れる。


 供物台の葉に指を当て、翠の雫をひと粒落とす。葉脈がさっと濃く、わずかに立ち上がる。前列の喉が鳴った。呼吸が合う合図。


 そこへベースが潜り、笛の節が肩口にかかる。手拍子は自然に揃い、足並みが同じ拍へ寄っていった。


 視界の端、影の濃い袖に黒い半被。ヒカルだ。


 スタッフ証を胸元で揺らし、真っすぐな視線の焦点だけが半歩ずれている。狙うというより、測っている目。ナギは動きの合間に輪郭を掠め取り、体幹をわずかに締め直す。提灯が風に鳴り、綿あめの甘さが一瞬鼻をくすぐった。


 タキオが舞台下で囃子を口に乗せ、子どもらは煙を追って手を伸ばす。伸びた指先の向こう、ミホの横顔。うなずく気配が見える。


ナギは小さく息を吐く。


ここで見せる。


ここで隠す。


今夜は一本だけ線を越える。


足さばきを一段速め、袖から裸の腕を半分出す。


 白い光を受け、鱗の痕が砂金のようにまたたいた。歓声が明るく跳ね、スマホの光がいくつも揺れる。香りは一段強く、レモンバームの冷えが喉を撫で、タイムの深みが胸へ落ちる。


 湿度と拍が混ざり、舞は滑る。重心の移動、指先の反り、背骨の波


――その一つひとつに、見ている体温が乗ってくるのが分かった。

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