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第十一話

よろしくお願いします

 カウンター脇の小さな扉に


〈スタッフ以外立入ご遠慮ください〉


 ヒカルは給水タンクを持ち上げ、水を足すふりでミホの視線を外し、身体だけを隙間へ滑り込ませた。狭いバックヤード。


 アルミ棚の中段に、ラベルの剝がれた小瓶がいくつか。脇にはノート。ページには折れたグラフ、日付、濃度、葉色のメモが整然と並ぶ。文字は細く、迷いが少ない。


 胸ポケットからスマホ。シャッター音は切ってある。光が足りない。扉をわずかに開け、店内のランプの一筋を紙面へ引き込み、必要な箇所だけを切り取る。


 毒であり、薬でもある


――あの夜の言葉が、ここでは別の比率で実証されている。指先に力が入るのを、自分で制した。


「お水、足りました?」


 すぐ外でミホの声。小瓶を元の角度へ戻し、呼吸を一度整えて扉を開ける。


「ええ。手伝いますよ」


「助かります」


 嘘は短いほどよく馴染む。カウンターへ戻ると、ジュンのライブは佳境だった。


〈屋上の密約〉


の見出しをなぞるペンが、最後のコマに小さく「共生」と置く。ぱっと拍手。


ヒカルは手を打ちながら、背の内側で何かが軋むのを聞いた。気づかないふりのまま店を出る。路地は朝よりも緑の匂いを濃くして、グラスの縁に残った香りを追いかけてくる。


 角を曲がってスマホを取り出す。写真を三枚、暗号化フォルダへ投げ、短く報告


――〈研究材料の撮影成功。濃度変化=植物活性の相関を示唆〉


送信から二十秒


〈よくやった。買収条件の再設定に入る〉


 冷たい承認の文字が画面の中央で光り、すぐに他の通知に埋もれた。息を吐く。安堵ではない。ただ、工程を一つ消したときの身体の動き。


 数日後。別の顔で店に立つと、内装はさらに進んでいた。テーブルの脚は古い水道管、継ぎ目はパテで埋め、クリアで艶が出ている。


 天窓の下、雨どいのミニチュアから落ちる水が、陶器のボウルをぽたぽた満たす。ミホは天井の配線を点検し、ジュンは学生にパネルの留め方を教えていた。


 サラは擦り傷に絆創膏を貼りながら


「消毒はしみるけど一瞬」


と笑う。計画図面にない設計。芽吹く路地裏。ヒカルは、何に目を奪われているのか、あえて確かめない。確かめれば、どちらかを選ばねばならない。


 夕暮れ、店内の灯りが外へこぼれるころ。奥の棚からナギがノートを取り出し、ミホと小声でやり取りしていた。


 ヒカルは窓の反射に視線を絡めたまま、もう一度だけバックヤードの扉の前に立つ。中では小瓶のひとつに新しいラベル。


 慎重になったのだ。彼もまた、慎重のまま眺め、触れずに戻る。スマホは沈黙。胸ポケットの下で、心臓だけが律動を強めた。


 夜、上司から電話。スピーカー越しの声音は、会議室の硬さをそのまま運んでくる。


「データは確認した。買収の枠で押し切れる。だが念のため“現物”が必要だ。サンプルを確保しろ」


 ヒカルは踵を返して空を仰ぐ。薄雲が走り、月は輪郭を滲ませる。棚で見た小瓶の角度を、指の記憶がなぞった。良心という語を避け、仕事の語彙で置き換える


――リスク評価、回収。


どの語にしても、胸の内側に残るものの名は変わらない。


「……了解しました」


 口が返事をし、別の自分が手の甲の血管の沈みを眺めている。


 翌朝。開店前の匂い。切り出した木の粉っぽさ、昨夜のミントの余韻、雨水タンクの金属。ヒカルはいつもの客の顔で、ほんの少し違う靴音で扉を押した。ミホが振り向く。


 いつもの笑み、いつもの問い。


「今日は何にします?」


「おすすめを」


 まだ境界線の上だ。ポケットのスマホは無言、封筒は鞄の底で紙の音も立てない。バックヤードの扉は、小さな影と光を並べたまま静かに待っている。


 ジュンが黒いマーカーで新しい見出し


――〈路地裏アジト〉。


 若者の歓声、点々と落ちるシャッター音。紙の四隅に、風の通り道がまた描き込まれる。カウンターでハーブを刻む音が、やけに澄んで聞こえた。


 ヒカルはグラスの縁の水滴を親指で拭い、決めきれない幾つかの重さを量る。上司の声、路地の匂い、ミホの視線、ナギのノート


――それぞれが、それぞれの正しさを抱えてここにある。


 店の奥で、バックヤードの扉が小さく軋む。サンプル。命令の単語が、氷の隙間で鈍く転がる。顔を上げる。正面のガラスに、通りの人波と自分の顔と店の灯りが同時に映った。


 映り込みの中で、自分の目だけがこちらを見返す。息を吸い、吐く。冷たくも熱くもない、ただの呼吸。グラスのハーブがわずかに揺れ、レモンバームの匂いが一瞬濃くなる。


 まだ踏み出していない。踏み出す先が二つしかないことだけは知っている。ポケットの重みは何も言わず、奥の棚の小瓶は光だけを返す。


 路地裏の芽吹きは、どちらの選択にも巻き込まれる準備ができているかのように、静かに葉を広げていた。


 強奪


――その言葉は、やがて具体的な日付と手順を伴って届くだろう。


 想像し、目を逸らし、また戻す。カウンターの向こうでミホが笑い、ジュンがペンを止め、サラが包帯を巻き、ナギがガラス越しに空の色を確かめる。


 ヒカルはグラスを置き、会計を済ませ、いつもよりわずかに遅い歩幅で外へ。路地の風が、背の汗を薄く冷やした。


 電話は鳴らない。だが次は来る。鞄の中で封筒の角を指先に見つけ、力を抜く。路地の出口に、昼の光が四角く落ちていた。


 そこへ足を踏み入れ、ひと呼吸だけ立ち止まる。揺れはまだ最大値。重さは等しい。もう一度だけ振り返り、ガラスに映る自分と目を合わせ、それから光の側へ歩いた。



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