第十話
よろしくお願いします
六月中旬。
気温のわりにオフィスの空調は冷えすぎていて、ヒカルの手首に、ガラス越しの氷水みたいな冷たさを残した。会議室のスクリーンには赤と青で塗り分けられた工程表。
「強制撤去計画(案)」
の黒いゴシック体が、光を固く弾く。上司はいつもの柔らかな声で、句読点の位置まで決めているかのような抑揚で言った。
「住民説明は再来週。同時に法的手続きの告知を出す。反対の核はシェアハウスと
――路地裏の空き店舗。あそこを拠点にしているらしい。情報は集めたか」
ヒカルは短くうなずき、タブレットに「進捗:視察中」と打つ。配られた薄い封筒は、手に置くと不釣り合いに重かった。
添付資料のサムネイルには、赤い×で塗りつぶされた木造家屋。末尾の小さな一文
――「必要時、行政協力の要請」
「迷いは捨てろ。いいか、我々は“安全”の名で動く」
その語は耳を抜け、胃のあたりへ沈む。安全。何度も使ってきた言葉なのに、今日は輪郭がうまくつかめなかった。
会議後、廊下の窓に映った自分の顔は、光の角度で別人に見える。襟を指で正し、封筒を鞄に押し込む。休日用の薄いジャケットに着替えれば、ただの客に紛れ込める。路地裏の“アジト”へ向かうのは、仕事であり、確認でもあり――胸の内のもう一つの声を黙らせるためでもあった。
商店街のアーケードを外れると、通りの温度が一段落ちた。細い路地は、昼でも陰が残る。その奥で、白いシャッターだったはずの空き店舗が、開いた口のように明るく息をしている。
新しい木枠の扉、古材を重ねた看板、ガラス越しに並ぶ鉢と棚。手書きの文字が踊る
――〈緑と本と少しの甘いもの〉
ヒカルは無意識に歩幅を縮め、影のように店内へ滑り込んだ。
先に来たのは匂いだった。ミントと湿った土、少し遅れて浅煎りのコーヒー。壁には黒いワイヤーメッシュ。
剪定ばさみや計量スプーン、ECメーターが目立たない工夫で掛けられている。天井のダクトレールには、省電力の植物灯。奥の棚はパレットを解体して作ったのだろう。
釘穴はコルクできれいに埋め、角はサンドペーパーで丸められている。手仕事の跡が、そのまま機能になっていた。
「いらっしゃいませ」
狭いカウンターからミホが顔を上げる。白い三角巾、まくった袖の内側にうっすら残る土の色。思いのほか近い距離で見ると、その目は、濡れた葉に落ちた光の色をしていた。
「おすすめを」
「今日のブレンドはレモンバームとタイム、それから浅煎り。アイスにすると香りが立ちます」
氷の入ったグラスが、からん、と澄んだ音を立てる。唇の下で涼しさがほどけ、舌に軽い甘み、遅れて青い香りが喉を抜けた。
ミホが指先で示すカウンターの隅には、雨水を濾過して循環させる小さな装置。透明な容器の中で、泡が細かく立っている。
「屋上のミニチュアです。ここでも循環、できるかなって」
「合理的だ」
職業の反射で口が動き、ヒカルはすぐに言い直す。
「いや、きれいだ」
視線の端で、ジュンが壁一面の紙にペンを走らせていた。配信ではない、本物の“ライブ”。
三列に並んだ若者の間を、笑いと小さな感嘆が行き交い、シャッター音が点々と落ちる。紙の左隅のタイトルは〈この街で暮らす技術〉
コマとコマのあいだに、路地の寸法、光の入り方、風の抜け道、プランターの配合が簡潔に図示されていく。説明会の壇上では聞こえなかった呼吸の音が、ここにはあった。
奥ではサラが子どもに包帯の巻き方を教え、タキオは買ったばかりのハーブ束を脇に置き、若い背中の線をゆっくり眺めている。
ヒカルはグラスの水滴を親指でなぞり、胸の奥に生まれた熱と違和感を、名づけずにポケットへしまった。上着の内側でスマホが短く震える。上司からの短文
――〈動向の記録を。特に“特殊栄養剤”〉
画面を伏せ、笑顔の角度だけをほんの少し変える。




