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蛇の入居者

 薄い雲を透かした朝の陽射しが、屋上菜園のテラコッタを温め、鉢の縁に斜めの影を映していた。ミホは噴霧器の金属レバーを静かに握り込み、指先に伝わるひんやりした感触で寝ぼけた神経をきゅっと引き締める。


 圧をかけると霧がふわりと放たれ、タイムの細い葉に銀の粒を散らした。水滴は葉脈をつたい、先端で一度だけ丸く震え、やがて重力に屈して土へ落ちる。耳を澄まさなければ聞こえないほど小さなその衝突音が、彼女にとって一日の開始を告げる鐘だった。


 鼻腔をくすぐるのは朝露と混ざったタイムの芳香。その奥で、遠いクレーンの軋みが金属質の唸りを上げる。湿り気を帯びた空気に、不協和音のようなその音が滑り込み、古びた家屋の瓦を震わせた。


 築五十年のこのシェアハウスは、外壁のヒビさえ愛おしいと感じるほどミホの日常に溶け込んでいる。しかし再開発図面にはすでに赤いバツ印が付され、静けさに微かな苦味を混ぜた。


 彼女は膝をつき、根詰まりしかけたラベンダーをそっと持ち上げる。

「十時には新しい人が来るんだよね」

 土と根がきしむ感触とともに、期待と不安がまだらに絡まり合う。それは苗を移植するときに感じる、土と根の抵抗に似ていた。


 木札に「4/3」と鉛筆で書き込み、そっと差し込む。四月初め、芽吹きの季節。だが地上ではアスファルトの舗装が進み、古い路地が少しずつ地図から消えてゆく。


 階下からはジュンの大欠伸が聞こえた。夜型の漫画家志望。続いてキッチンで皿を扱うサラの手際のよい音。彼女の作る卵焼きの甘い匂いが、換気扇を抜けて屋上へ漂ってきた。生活の匂い――この平凡な気配を、どれだけ守れるだろう。


 ミホは立ち上がり手帳を開く。「新入居者・内見」の赤い丸印。その横に「バジル苗・植替」。そろそろ室内へ戻ろうとしたとき、白いタープがぱさりと揺れ、朝の冷気が頬を撫でた。ふと見下ろすと、じょうろの縁に小さなアリが迷い込んでいる。指先で助け出すと、アリは土の上を忙しなく走り去った。ミホは心の中でそっとつぶやく。――たとえ街が塗り替わっても、この屋上の季節だけは続かせたい。


 * * *


 午前が過ぎ、陽は頭上へ傾き始める。道路の向こうからエンジンの低い唸りが近づき、古いアスファルトを揺らしながら艶のない黒いワゴンがシェアハウス前でブレーキを軋ませて止まった。ミホが玄関脇の窓から覗くと、胸の鼓動が一拍早まる。


 先に降りたのはネイビーのスーツ姿のレヴィック不動産担当者。貼りつけた笑顔の奥で、視線は時計と建物をせわしなく往復している。続いて車外に足を下ろした青年――ナギ。肩口で揺れる黒髪が陽に鈍く光り、長い睫毛の影から淡い碧眼がのぞく。細身のコートを払う仕草に、異国の静けさが宿り、ミホは反射的に息を呑んだ。


「こちらがご覧いただくお部屋です」

 営業マンの声はビジネスライクだがどこか急いている。ナギは小さく頷き玄関をくぐった。土間に並ぶ古い靴を無言で見下ろすその姿は、部屋の空気を確かめる渡り鳥のようだった。


 リビングではジュンがタブレットを閉じ、「また内見か……」と半欠伸混じりに呟く。サラがポットの蓋を押さえつつ苦笑し、「ほら、愛想よく」とたしなめた。

 ナギは二人に軽く会釈を送り、梁や窓枠の古傷へ視線を滑らせる。古さを咎めるでもなく、むしろ歴史を読み取るようなまなざし。ジュンはその無口に引っかかりを覚え、眉をひそめた。


 屋上へ続く階段を上がり、扉を押すと、タイムとミントの混ざった青い匂いが一気に流れ込んだ。ナギの睫毛が微かに震える。

「植物が……生気に満ちている」

 かすれた呟き。しかしミホにははっきり届き、声が弾む。

「そう? 嬉しいな」

 その言葉は、長い旅の末にようやく水を得た者の驚きに聞こえ、ミホの胸でも固い蕾がほころびかけた。


 そこへ紙袋の擦れる音とともに町内会長のタキオが現れた。

「ミホちゃん、レモンバームを少し分けてくれないかい」

「もちろん、香りが乗ってきたところで」

 ミホは手早く葉を摘みタキオの掌に載せる。老婦人は満足げに笑い、ナギへ視線を移す。

「初めて見る顔だね。いいところさ、壊すなんて話は忘れちまいな」

 ナギは小さく頭を下げた。笑みは形にならないが、瞳の奥に一瞬柔らかな光が宿る。ミホの胸に芽ばえた好奇心は、たしかな重みを帯び始めた。


 営業マンが屋上の広がる空を縮めるように咳払いし、書類バインダーを開く。

「では、細かい説明に――」

 せっかちなページを捲る音が、ハーブの匂いと空の広さにひずみをつくる。


 ナギは契約書に並ぶ数字を無表情で追い、ふいにぽつりと漏らした。

「俺は、住んでいたアパートを退去させられた。行き場がない」

 語尾に落ちた影が、風より重く菜園へ沈む。ミホは胸の奥で小さな芽が傷むのを感じ、無意識に唇を噛んだ。サラは同情を帯びた眼差しを注ぎ、ジュンの視線には鋭い疑念が灯る。


 それでもハーブの群れを撫でる風は、変わらず清かだった。だが人と人の匂い立たぬ感情がゆっくり混ざり合い、屋上の空気をわずかに重くする。――この瞬間から、シェアハウスの季節は静かに別の色を帯びていった。



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