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第八話:揺らぐ境界

 神崎とアイリは、ひそやかに距離を詰めながら人々の後を追った。 

 

 商店街の喧騒が遠ざかり、参道の石畳を踏む足音が潮騒に溶けていく。


 潮風は冷たく湿り気を帯び、遠くで波が岩を打つ音が響く。その律動は一定のようでいて、時折、不吉な歪みを孕んでいた。


「……あの人たち、会話をしていませんね」


 神崎が低く囁くと、アイリは頷いた。


 確かに、普通の参拝客ならば友人や家族と言葉を交わすはずだ。

 しかし、この人々の群れは誰ひとり口を開かず、ただ祠へ向かって歩みを進めている。まるで見えない糸に導かれるかのように。


「……歩調が揃いすぎている」


 アイリの声には警戒の色が滲んでいた。若い女性もいれば、年配の男性もいる。服装も立場も異なるはずの人々が、奇妙な統一感をまとっていた。


 その無機質な動きは、意志ではなく、まるで何か外的な力に操られているかのようだった。


 やがて、一行は少し高台にある朱塗りの弁財天の祠へと辿り着いた。


 かつて鮮やかだったはずの朱色は、潮風と風雨に晒され、ところどころ塗装が剥げ落ちている。露わになった木の地肌には、無数の願いが積もり、刻まれたかのような痕跡が滲んでいた。


 苔むした石段を登る人々の背中が、夕闇に沈む。その数は、最初に目にしたときよりも増えていた。


「……こんなに」


 どこからともなく、新たな者たちが加わっている。


 祠の前で立ち止まると、人々は一斉に頭を垂れ、唇をわずかに開いた。


「……」


 神崎は息を呑んだ。

 圧倒的な異様さが、その場に満ちる。


「これは……何か祈っているんでしょうか」


 囁くと、アイリはゆるく首を振った。


「……違う。何かを待っている」


 静寂の中、彼らは次第に手を伸ばし、祠へ向けて囁き始めた。


「……佳織……」


「……誠一……」


「……お母さん……」


 名前がぽつりぽつりとこぼれ、それは次第に波の満ち引きに同調するように、統一されていく。


「……帰ってきて……」


「……戻ってきて……」


 それは願いではなく、懇願だった。


「……っ」


 神崎の全身に悪寒が走る。


 これは、ただの参拝ではない。

 彼らはそれぞれ、死に別れてしまった大切な人の名前を呼んでいる。


「アイリさん……このままだと、まずいですよ」


 神崎が囁くと、アイリは鋭い視線で祠を見つめていた。


「ああ、……まるで声に応えるかのように、結界の綻びがひどくなってきている」


 風がざわりと木々を揺らす。祠の奥に佇む小さな社の扉が、かすかに軋んだ。


 そのとき——


「……戻ってきて……」


 人々の声が、より低く、濁ったものへと変わっていった。


 願いというより、執念に近い何か。


「……このままだと結界が」


 神崎は拳を握りしめた。


「ああ。無理矢理にでも死者を送り返し、門を封印するしかない」


 アイリは決断し、封印の準備を始めようとする。


 だが——


「待ってください」


「待つ猶予はない」


 アイリの声は静かだった。その言葉が意味するものを、神崎は理解していた。


 祠の奥——


 まるで空間が歪んでいるかのように、薄闇が揺れる。その向こうに、『彼岸』が滲み始めていた。


「このまま放置すれば、次に消えるのは生者だ」


 アイリは断言する。


「……生きている人が?」


「ああ。境界が崩れれば、今度は生者が引きずり込まれる可能性がある」


 神崎は思わず息を呑む。


「死者が戻ることと、生者が死に引かれることは表裏一体なんだ。この町が死者を迎える町になれば、同じ数だけ死を運ばれる者が増えていく」


「つまり……このままじゃ、『まだ生きられるはずだった人間』が犠牲になる……?」


 アイリは静かに頷いた。


「そうだ。死者を留めることは、生者の未来を奪うことに繋がる」


 神崎の胸に、冷たいものが流れ込む。


 二度も死に別れる人々の悲しみ——それは痛ましい。だが、この異常を放置すれば、それ以上に「不条理に命を奪われる者」が生まれてしまう。


 けれど、ただ門を封じ、死者と生者を引き裂けば、それもまた新たな悲しみと歪みを生むのではないか——?


 冥府庁の職員として、手早く規則通りに処理するべきなのは分かっている。それでも……。


 風が吹き抜ける。


「神崎、お前は何を迷っている?」


 アイリの静かな問いかけ。


 神崎は苦しげに唇を噛む。


「……このまま無理に門を閉じても、また同じことが繰り返される気がするんです」


 アイリがじっと神崎を見つめる。


「ならば、どうする」


 神崎は拳を握りしめた。


「……俺は、門を閉じるだけじゃなく、きちんと終わらせたいです。矢口さん達が納得しないまま封じても、また誰かが同じことを繰り返す」


「つまり——この現象の核である矢口静馬を説得し、未練を断ち切らせるということか?」


 神崎は強く頷いた。


「扉が開く原因になっているのは、彼の想いの強さです。だから、ただ封じるんじゃなく、彼自身に手放させなければいけない」


 アイリは静かに息を吐いた。


「——なら試してみろ。その結果がどうなるか、見届けてやる」


 その瞬間、風がざわりと吹き抜ける。


 門の縁が揺れ、『向こう側』の闇がわずかに薄れた。


 出来るかどうか迷っている時間はない。


 神崎は深く息を吸い込み、人々の中心に立つ男に目を向けた。


 矢口静馬——


 彼こそが、この夜の鍵を握る存在だった。


 痩せこけた頬、虚ろな目。まるで長い間、夢の中を彷徨っていたかのような顔をしている。


 昼間の聞き込みで聞いた、五年前から夜ごと祠に通う男。そして、社の境内に奉納された「佳織」と書かれた無数の絵馬。


 門が開こうとしている今も、矢口はただまっすぐ祠を見つめ、何かを待っていた。


 神崎はゆっくりと近づく。


「……矢口さん、ですね?」


 矢口の肩が微かに揺れた。焦点の合わない目が、ゆっくりと神崎の方を向く。


「……誰だ、お前は……」


「神崎といいます。あなたが、毎晩ここへ来ていることを知っています。——佳織さんに会うために」


 その名を口にした瞬間、矢口の瞳に微かな光が宿った。


「……佳織を……知っているのか……?」


 かすれた声。長く感情を失っていた者が、わずかに揺り動かされたかのような響きだった。


「直接知っているわけではありませんが、彼女は……」


 神崎は話しかけながら一歩、彼に近づく。


 そのとき——


 背後で空気が弾けるような音がした。


「こっちの事は構うな」


 アイリの声が、思わず振り向こうする神崎を止める。彼女の指先は宙に何かを描くように動いていた。見えない力の網が、結界の歪みに沿って張り巡らされていく。


 たった一人で、門が向こう側から開こうとするのを押し戻そうとしている。

 神崎は息を呑んだ。


「3分は持たせる。今のうちにやれることをやれ」


 そう言いながら、アイリの顔はわずかに青ざめていた。

 張り詰めた空気の中で、確実に彼女の力は削られていく。


「……はい」


 神崎は短く言い、矢口に向き直った。


「矢口さん。あなたは、佳織さんにもう一度会いたいんですよね」


 矢口の口が、かすかに開く。


「……当然だ……」


 その瞬間、門の向こう側からざわりと何かが動く気配がした。


「当然だ……当然だ……!」


 矢口の声が次第に震え、熱を帯びていく。


「五年だぞ……五年も……毎日ここへ来た……佳織に会うために……」


 その目が、深い闇を孕んでいた。


「佳織は……すぐそこにいるんだ……もうすぐ……もうすぐなんだ……」


 矢口の足元で、黒い影のようなものが揺らめく。


 ——これはまずい。


 神崎は息を呑んだ。


「矢口さん、落ち着いてください」


「邪魔をするな……!」


 矢口が叫ぶと同時に、門の歪みが一気に広がった。


 結界が、崩れかけている。


「……神崎!」


 切羽詰まったアイリの声が届く。


 彼女は結界を維持しながら、神崎に目で合図を送った。


 ——説得できなければ、強制的に封じるしかない。


 その意味を悟り、神崎は拳を握りしめた。

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