第六話:聞き込み調査
喫茶店のドアが閉まると、潮風の香りが微かに漂ってきた。
神崎はアイリの後を追い、ようやく交差点で信号待ちしている彼女に追いつく。
二人はそのまま江ノ島へ向かった。
空はまだ青く澄み、観光客の姿もちらほらと見える。時刻は朝の十時を回った頃だった。
「……門を開くほどの強い願い、か」
神崎は呟いた。
岡部の話を聞いた時から、嫌な予感がしていた。江ノ島の弁財天は、ただの海の守護神ではなく、縁結びの神でもある。生者と生者だけではない。生者と死者の縁すらも──。
「想いの力だけで境界を歪ませるなんて、普通はあり得ないですよね」
その言葉に、アイリは前を向いたまま短く頷く。
「それだけ強く、執念深い願いが集まったということだ。長年、無数の思念が積み重なり、境界の綻びとなった。誰かが意図的に開いたわけではないが……それが、より厄介だ」
江ノ島の商店街に入り、アイリは立ち止まった。道行く人々の様子を注意深く観察し、適当な人物に声をかける。
「すみません、少しお話を伺いたいのですが」
最初に目をつけたのは、中年の男性だった。落ち着いた雰囲気で、地元の人間らしい。だが、アイリの声を聞いた途端、彼の表情が硬くなった。
「……何か?」
「弁財天について、最近何か変わったことはありませんか?」
男性は眉をひそめ、そわそわと落ち着かない様子を見せる。
「いや……別に。すみません、急いでるんで」
そう言うと、彼は足早に立ち去ってしまった。
アイリは軽く息を吐き、今度は近くの若い女性に声をかける。
「すみません、少しだけお時間よろしいですか?」
しかし、女性も一瞬視線を泳がせると、「ごめんなさい、分かりません」と早口で答え、すぐにその場を離れていった。
彼女の声のトーンや立ち振る舞いが、どこか尋問めいているせいかもしれない。次に声をかけた相手も、同じように言葉を濁しながら逃げるように去っていく。
「……なかなか難しいものだな」
アイリは低く呟き、腕を組んだ。
一方、神崎は近くの菓子店の店先に並んだ団子を眺めている。アイリが呆れて声をかけようとした時、神崎は朗らかに菓子店の店主に話しかけた。
「わあ、すごいな。これ、もしかして昔ながらの手焼きの団子ですか?」
「おう、そうだとも。一本一本、丁寧に焼いてるんだ。機械じゃこうはいかないよ」
神崎は団子をじっと見つめた。表面に残るわずかな焼きムラや、串の微妙な焦げ方が、確かに手作業の証だった。
「いい色ですね。こういうの、最近はなかなか見かけないです」
「はは、ありがとよ。観光客も増えたし、昔ながらの味を求める人も多くなったんだ」
店主は嬉しそうに笑う。
「最近観光客が増えたんですか?」
「ああ。まあ観光というよりは参拝客が、な。特に夜の弁財天にお参りする人が増えたんだよ」
無邪気に話していた神崎だが、その言葉にふいに微かに目を細めた。
「夜に?」
「まあな。昔から弁財天は縁結びの神様だから、恋愛成就を願うやつも多いしな。でも、最近はちょっと様子が違う」
「様子が違う、というと?」
「妙に静かなのさ。皆、口数が少ない。まるで祠に向かって、誰かと話しているみたいでな……」
店主の顔色が僅かに曇る。何か言い淀んである様子に、神崎はさりげなく店先の団子に手を伸ばしながら相槌を打った。
「それは妙な話ですね。前はそんなことなかったんですよね。何かあったのかなあ。──あ、これ一本頂けますか?」
神崎は話しながら団子を一本買い、串を回しながらゆっくりと頬張った。
「これ、やっぱりその辺のと違いますね。香ばしいな」
お世辞ではなく心底美味しそうに食べる神崎に、店主は思わず相好を崩す。
「嬉しいこと言ってくれるね、あんた」
店主は笑ってから、ふと何か思い出したのか一瞬考え込むそぶりを見せた。
「……そういえば、一人だけ。最近じゃなく五年くらい前から、必ず夜に来る男がいたな」
「五年前から……?」
「ああ、お供えにと団子を買っていってくれることもあるが、あまりに頻繁に顔を見かけるから気になってね。……おっと、すまんすまん。つい長話をしてしまった。またな、兄ちゃん」
「いえいえ、ご馳走さまでした」
神崎は店主にお礼を言ってから店先を離れた。
「アイリさん、今の話、聞きました?」
「ああ、聞いた」と頷きながらアイリは「お前は引き続きこの辺で情報を集めろ」と言った。
「えっ。アイリさんは?」
「近くの資料館へ行く。江ノ島の弁財天に関する記録があるかもしれない。祠の由来や過去の信仰を調べてみる」
神崎は一瞬、興味を示したように目を輝かせた。
「それなら俺も──」
「いや、分担した方がいい。お前はここで聞き込みを続けた方が効率的だ。私は記録を調べる。適材適所というやつだ」
そう言い切られ、神崎は少し肩を落としたが、納得したように頷いた。
「まあ確かに……その方が情報が集まりやすいですね」
「そういうことだ」
アイリはそれ以上の言葉を交わさず、迷いなく資料館の方へと歩き出した。
一方、神崎は別の店や地元の人々に聞き込みを続けることにする。
次に立ち寄ったのは、江ノ島で長年土産物を扱っている小さな雑貨店だった。
店先で手ぬぐいを畳んでいた中年の女性が、穏やかな笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。観光ですか?」
「いえ、ちょっとこの辺りのことを聞きたくて」
神崎は手近な貝細工を手に取り、軽く笑った。
「これ、手作りですよね?細かい細工がすごい」
「そうですよ。うちの職人が、一つずつ手彫りしてるんです」
女性は嬉しそうに頷いた。
「最近、弁財天の祠に行く人が増えたって聞いたんですけど、何か変わったことはありました?」
「ああ、確かに増えましたねぇ。お参りする人の姿はよく見ますよ。特に夜はね」
「やっぱり夜なんですね」
店主は手を止め、少しだけ声を潜める。
「なんだか、皆さん真剣なんですよ。普通の観光客じゃなくて……祈るように、何かを求めてる感じがしてねぇ」
「何を求めてるんでしょう?」
「さあね。でもね、たまに聞こえるんです。小さく、何かを呼ぶ声が」
神崎は無意識に息を呑んだ。
「名前を呼ぶような声、ですか?」
「そう。はっきりとは分からないけど……ずっと、誰かを待っているみたいな」
潮風が、さらりと店内を吹き抜けた。
「それって、五年前くらいからですか?」
「ええ、ちょうどそのくらいね。五年前から、夜の弁財天は少し変わったのよ」
神崎はその言葉を胸の奥で反芻した。
「五年前……」
和菓子屋の店主の言葉と符合する。何かが起こったのだ。
「五年前に何があったんでしょう?」
「さあね。ただ、その頃から急に『呼ぶ声がする』って話が出始めたのは確かよ」
神崎はふと手にしていた貝細工を眺めた。繊細な波の模様が刻まれ、手触りも滑らかだった。
店主がふっと微笑む。
「お土産に、一つどうです?」
「そうですね。せっかくなので一つもらおうかな」
店主の勧めに乗るように、神崎は貝細工を購入した。
「ありがとうございます。また来てくださいね」
神崎は礼を言い、店を出た。潮風が髪をかすかに揺らす。
土産物屋を後にし、ゆっくりと参道を進む。
午後の江ノ島は、観光客で賑わっていた。海から吹き上げる風に乗って、人々の笑い声や店先からの呼び込みの声が混ざり合う。
神崎は手すりの向こうに広がる海を一瞥しながら、足を進めた。
目的地は、弁財天の祠。
和菓子屋や土産物屋の店主から聞いた「五年前から夜ごと祠に通う男」の話が気になっていた。
もし彼が今もそこに通っているなら——その痕跡が何かしらあるはずだ。
祠の周囲には、観光客がちらほらと立ち寄っていた。記念写真を撮る者、手を合わせる者、縁結びの御守を手にする者。
どこにでもある、穏やかな午後の光景だった。
しかし、神崎は何かを探すように視線を巡らせる。
ふと、絵馬掛けの一角が目に留まった。
木製の小さな絵馬が無数に吊るされ、願い事が書き込まれている。
神崎は何気なく手を伸ばし、いくつかの絵馬を目で追った。
——そして、違和感に気づいた。
「……これは……」
同じ筆跡で書かれた絵馬が、いくつも並んでいた。
そこに書かれていた名前——
「佳織」
その名が、繰り返し、何度も、まるで祈るように記されていた。
神崎はそっとその文字を指でなぞる。
五年前から、夜ごと祠を訪れる男。
そして、何枚も同じ名前を書き続ける誰か。
絵馬にはその男の名前も一緒に記されていた。
「……矢口静馬、か」
小さく呟いた言葉が、潮風に溶けて消えた。
——何かが、確実に繋がり始めていた。