第四話:彼女の隣に立つ者
洞窟の外へ踏み出した瞬間、潮風が頬を撫でた。
夜気は冷たく、湿った身体を容赦なく包み込む。さっきまで肌を這っていた圧迫感が嘘のように消え、代わりに波の音が静かに満ちてくる。
安堵のはずなのに、胸が苦しい。
神崎はその場にへたり込み、荒い息をついた。肺が焦げつくように熱い。体は震え、膝から力が抜けた。
「……すみません」
神崎の声は震えていた。
視界が滲んでいるのは、洞窟の湿気のせいじゃない。
何も見えなくなりそうなあの闇の中、ひたすら伸びる冷たい手、押し寄せる声の洪水——その中で、自分は全く立っていられなかった。
何かに抗う力もなく、ただ呑み込まれかけるまま、アイリに助けられた。
「俺のせいで、アイリさんの調査が……っ」
唇を噛みしめる。こみ上げる悔しさを、どうすることもできない。
自分さえしっかりしていれば——
もっと奥まで踏み込めた。
アイリの足を引っ張ることなく、境界の歪みの核心に迫れた。
それなのに、自分は——
「俺だって、冥府庁の職員なのに……こんなことで足を止めて……!」
握りしめた拳が震えた。情けなさ、悔しさ、無力感が渦巻いて、どうしようもなく苦しい。胸の奥が焼けつくようだった。
だが、そんな神崎を見下ろしながら、アイリは淡々と言った。
「気にするな。私の判断ミスだ」
「……え?」
顔を上げると、アイリは腕を組み、揺るぎない瞳でこちらを見下ろしていた。
「お前が亡者に目をつけられやすい特性を持っていることを、私が考慮できていなかった。調査を中断することになったのは、私の失策だ」
神崎は絶句した。
——アイリが、自分のミスを認めた。
彼女は常に規律を重んじ、最善の選択をする人間だ。彼女は常に正しく、自らの判断ミスを口にすることは滅多にない。
その言葉が、どれほどの意味を持つのか、いつも行動を共にしている神崎にはわかっていた。
「……でも、俺がしっかりしてれば……」
「それなら結果が違っていたと思うのか?」
アイリの言葉は、ひどく静かだった。
「お前がしっかりしていたら回避できたかどうかは断言できないだろう」
「それは……」
神崎は思わず息を呑む。
何かを責めるでもなく、ただ淡々とした問い。
「『声に呼ばれた』時点で引き返すべきだった。お前が、《《こちら側の人間》》だと認識され、現世の道標だと他の亡者達も縋り付いてくるのまでは想定できた事項だ」
言葉そのものはまるで業務報告のように淡々としていたが、それが逆に胸に響く。
「すみません、俺は……」
神崎は、どう答えればいいかわからなかった。アイリのように先の事態を想定できるほど、自身は経験は積んでいない。
アイリは少し間を置いてから、はっきりと言った。
「それに、間違えるな。これは《《私の調査》》ではない。《《私とお前の調査》》だ」
神崎は思わず目を見開いた。
今の一言は、まるで当たり前のことを確認するかのような冷静さだった。
けれど——
その言葉の意味は、彼女の性格を知っている神崎だからこそ、痛いほどわかる。
──アイリが、初めて自分をバディとして認めた。
神崎自身、どこかで「自分は彼女の後ろをついていく立場」だと思っていた。
けれど今——
アイリは、初めて「対等な相棒」としての認識を示したのだ。
——でも、それが嬉しいと感じるには、自分はまだ全く足りていない。
相棒としての信頼に応えられていない自分が、どうしようもなく歯がゆい。
だが、その感情を表に出すのは、あまりにも情けなかった。
だから、神崎は無理やり笑みを作る。
「……ですよね」
アイリはそれ以上、その件については何も言わなかった。ただ、夜の海を見つめていた。
暗い波間に、月の光が細く揺れている。
「調査は無駄足ではなかった。噂の裏付けが取れ、岡部の情報も信憑性があることがわかった」
その言葉に、神崎は黙って耳を傾けた。
「あそこに境界の歪みが発生しているのは確実だ。あの洞窟は、昔から“異界への門”とされてきた場所。その門が今、何らかの理由で不安定になっている」
アイリは、夜の潮騒に目を向けたまま、静かに続ける。
「歪みが正されれば、街に出ている亡者たちも、本来帰るべき場所へ戻るはずだ」
神崎は、ゆっくりと深呼吸した。
冷たい夜風が肺の奥まで染み渡る。
——まだ、終わりじゃない。
うまく立ち回れなかったことへの悔しさはまだ残っていた。
だけど、今はそれよりもやるべきことがある。
止まっている暇はない。
神崎は目元を手の甲で拭い、静かに立ち上がった。
「じゃあ……次は」
神崎は少し考えた。
失策だったと珍しくアイリが口にするほどだ。あの先に再び進もうとしても、得られるものは何も無い可能性が高い。
それならば──
「明日、もう一度岡部さんに情報を共有して整理しましょう。何か新たな情報もあるかもしれません。それから、歪みを発生させている原因を探るのはどうですか?」
アイリは少しだけ考え、それから言った。
「ああ、その方が確実だな」
短い同意の言葉。だけどほんの少し、今までよりも肯定されている感じが伝わってくる気がした。
神崎は拳を軽く握り直し、夜の潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
──次は、必ず。
今度こそ、足を止めない。




