第三話:あの世に“呼ばれた”夜
洞窟の奥へ進むにつれ、空気がじっとりと肌にまとわりついてきた。
湿った岩肌を伝う水滴が静かに落ち、どこからか潮の匂いとは違う、土と鉄が混じったような匂いが漂っている。
足元には浅い水たまりが広がっていた。
懐中電灯の光を当てると、黒く鈍く反射する。まるで液体の向こう側にもう一つの世界があるようだった。
「……アイリさん、本当に奥まで行くんですか?」
神崎は肩をすくめながら、後ろから彼女を見た。
アイリは懐中電灯を持つ手をゆっくりと動かしながら、壁や足元を丁寧に観察していた。
「当たり前だ」
「いや、さすがにその……ちょっと怖くなってきたんですけど……。何か出そうだし、絶対入っちゃいけないとこですって」
「嫌なら帰ればいい」
アイリはあっさりと言い放った。
「いやいや、そういうわけにもいかないでしょ。俺だって一応、冥府庁の職員ですし……」
「なら、ガタガタ言うな」
取りつく島もない態度に、神崎は苦笑しながら、少し遅れて後をついていく。
すると、ざわ…… という何かが動いたような音がした。
神崎は反射的に立ち止まった。
「……今の、聞こえました?」
「何がだ」
アイリは懐中電灯を持つ手を止め、じっと前を見つめた。神崎にしか感じ取れない何かがあるのか、ただの臆病風邪が吹いたのか判断しかねる様子だった。
「ちょっと待て。……こっちか」
アイリは神崎が立ち止まった付近を注意深く探った。そこには、壁の亀裂が大きく口を開けたような空間があった。岩が削れ、奥へと続く隙間ができている。
「……こんな場所、通れるんですか?」
「観光ルートにはない。だが、さっき見た古い記録には《《戻らずの穴》》と呼ばれる場所の記述があった」
アイリは冷静に言いながら、亀裂の奥を覗き込んだ。
「黄泉への入口、とも言われていた場所だ」
神崎の喉が小さく鳴った。
「黄泉……」
その言葉を聞いて、胸の奥で何かがざわめいた。それは彼自身の遠い記憶か、それともただの恐怖か。
あの日見た井戸の底の光景が、ふいに脳裏をよぎる。生者と死者の境界、冷たい闇の奥で、自分は──
「……ンザキ……」
静寂を破るように、誰かの声がした。
「あ、すみません。ちょっとボーッとしちゃって」
アイリが咎める声だと思って慌てて謝りかけた瞬間、再び……。
「カンザキ……」
足元から、闇の奥から、今度ははっきりと自分の名前を呼ぶ声がした。
神崎は弾かれたように顔を上げる。
「──アイリさん、今の……!」
彼女の表情からは感情の変化らしきものは何も読み取れなかったが、僅かに鋭く細めた目から、その声が探していた怪異のものだと悟る。
「行くぞ」
迷いも恐れもなく、彼女は亀裂の奥へ進んでいく。
神崎は大きく息を吸い、震える手を懐中電灯に力強く握り直した。
「……行くしか、ないよな」
そして、彼もまた、その闇の奥へと足を踏み入れた。
狭い亀裂を抜けた先は、まるで別の空間のようだった。
洞窟の奥に広がる空間は天井が高く、湿った岩肌に懐中電灯の光がぼんやりと反射している。水の滴る音が遠くから響き、奥にはさらに細い通路が続いていた。
アイリは迷いなく前進した。足元の水たまりを踏み越えながら、慎重に壁をなぞるように進む。その背後で、神崎は唾を飲み込んだ。
「……なんか、空気が違いますね」
彼は懐中電灯を持つ手に少し力を込めた。
「湿度が上がってるだけだ」
アイリは冷静に答えたが、神崎の不安は拭えなかった。
──何かがいる。
そう感じたのは、その直後だった。
懐中電灯の光の届かない奥の闇。そこに、人影 があった。
「……っ」
神崎の呼吸が一瞬止まる。
それはゆっくりと動き、手を上げた。
──手招きしている。
見間違いではない。そこには確かに、誰かがこちらを見つめ、静かに手を振っている。
「……アイリさん」
声を絞り出そうとしたが、言葉にならなかった。
次の瞬間、頭の中に押し寄せてきたのは、無数の思念 だった。
男の嘆き、女の悲鳴、子供のすすり泣き。叫び、呪詛、恨み、絶望。
それらが一気に流れ込んできた。
──ここはどこだ。
──私は誰だ。
──帰れない、帰れない、帰れない。
──助けて。
──なぜ、あの人だけが。
──お前は……。
「……っ、ぐ……!!」
神崎は頭を抱え、膝をついた。
脳内に叩きつけられる情報が多すぎる。感情が、声が、記憶が、何もかもが一瞬にして溢れかえり、意識が千々に引き裂かれるような感覚に襲われる。
──意識が持たない。
「……神崎!!」
アイリの鋭い声が、霧の向こうから響いた。
次の瞬間、強引に腕を引かれる。
「っ、は……!」
神崎の視界がぐらりと揺れる。アイリが彼の腕を支え、そのまま洞窟の奥から引き戻していく。
「待っ、アイリさん……!」
「今は退避する」
アイリは一切の迷いなく引き返し、亀裂を越え、元来た道へと戻っていく。
その間も、神崎の頭の奥では、あの無数の声がこだましていた。
──カンザキ……
──戻れ……
──お前は……
背後で、誰かがこちらを見つめている気がした。
それでも、アイリの力強い手が、確かに神崎を現世へと引き戻していった。