第二話:あの世へ続く道
カフェを出ると、潮風が頬をかすめた。 夕暮れの江ノ島は観光客もまばらになり、弁天橋の向こうに沈みかけた陽が朱色に輝いている。
波の音が遠くから響き、湿った風が街を包んでいた。
神崎は少し歩いたところで足を止め、隣を歩くアイリに声をかけた。
「アイリさん、どう思います? さっきの話」
アイリは無言で少しの間考え込み、それから静かに答えた。
「はっきりとした確証がない以上、単なる都市伝説の可能性はある。ただ、ここまで具体的な証言が重なっている以上、調査の価値はあるだろう」
「街の噂と岩屋洞窟、関係があるとしたら洞窟の奥の方まで一応行ってみた方がいいんですよね」
気乗りしてない様子がありありと感じられる言葉だったが、アイリは気に留める様子はない。
「当然だ。さっきも言っただろう。噂が広がる背景には、必ず何かしらの原因がある。超常的なものか、それとも単なる偶然かはわからないが、調査は必要だ」
「ですよねえ……」
神崎は苦笑しながら、何か諦めた様子で歩き出した。
弁天橋を渡ると、潮の香りがより濃くなった。海沿いの道は静かで、遠くでカモメが鳴いている。
江ノ島の奥へ進むほど、観光客の姿は減り、やがて岩屋洞窟へと続く道が現れた。
洞窟の入口は、すでに夜の影に包まれ始めていた。
昼間ならば観光客で賑わうこの場所も、閉館時間を過ぎた今はひどく静かだった。波の音だけが規則正しく響き、湿った風が岩肌を撫でていく。
入口には鎖が張られ、「立入禁止」 の札がかかっている。
だが、そんなものは初めから問題ではなかった。アイリは迷いなく鎖を跨ぎ、洞窟の奥へと足を踏み入れる。
「ちょ、アイリさん……。もう少し慎重にいきません?」
神崎は苦笑しながらも、彼女の後を追った。
「慎重にしている時間が無駄だ。何かあるなら早く確かめる」
アイリは懐中電灯を取り出し、洞窟の壁を照らす。湿った岩肌は鈍く光り、ところどころに苔が生えていた。
足元は冷たい水たまりが点在し、奥へ進むにつれてひんやりとした空気が肌を刺すようだった。波の音は遠ざかり、代わりに自分たちの足音が妙に響く。
「うーん……やっぱり夜の洞窟って、こう、なんていうか……《《雰囲気》》ありますよね」
神崎は肩をすくめながら、懐中電灯の光をあちこちに向ける。
「都市伝説としては最高の舞台って感じですけど……それが現実になるのは勘弁っていうか。ほら、何せ俺って以前にも……」
「無駄口を叩くな。調査に集中しろ」
アイリは壁を撫でるようにして進む。
「岡部も言っていたが、この洞窟は、かつて冥府への門とされていた。修験者や陰陽師が修行し、神仏と交信を試みた場所だ」
「ですね。俺もさっきパンフレット見てたんですが、弘法大師も修行したって書かれてました。……ただの観光地とは違うんですよねえ」
神崎は岩場を慎重に踏みしめながら言った。
「それで、噂になってる“声”ですけど……」
言いかけたそのときだった。
ひゅう……
風のような、何かが微かに囁くような音がした。
「……?」
神崎は息を止め、アイリを見た。アイリは何の感情もない顔で前を見据えていた。
「アイリさん、今の……」
「ああ、聞こえた」
アイリは懐中電灯の光を奥へ向ける。だが、そこには何もない。ただ、岩の裂け目の奥が闇に沈んでいるだけだった。
「……この奥に何かありそうだな」
アイリは迷いなく歩を進めた。神崎は反射的に彼女の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。これ、普通にヤバいやつじゃ……?」
「ここまで来て、調べずに帰るなど馬鹿馬鹿しいだろう」
アイリは神崎の手を振りほどき、さらに奥へ進んでいく。
神崎はため息をつき、覚悟を決めるように一歩踏み出した。
「……はあ、なんでこうなるかなあ」
そして、二人は洞窟の闇の奥へと消えていった。