第一話:洞窟の先に
「いやぁ、鎌倉ってやっぱりいいですね。風情があります」
冥府庁・調査課の神崎イサナは、江ノ電の座席に腰かけながら、車窓に広がる海を眺めていた。
波が穏やかに輝き、観光客が賑わう七里ヶ浜の風景が流れていく。
「仕事で来ていることを忘れるな」
そう冷ややかに釘を刺したのは、神崎の相棒である黒野アイリだ。
「分かってますよ。でも、せっかく来たんですから、ちょっとくらいは楽しみましょうよ」
神崎はそう言って笑ったが、アイリはそっけなく視線を流した。
漆黒のパンツスーツに身を包んだ彼女の姿は、まるでこの喧騒とは異質な影のようだった。冷静沈着な表情の奥には、常に隙を見せぬ警戒心が宿っている。
対して神崎は、その黒いイメージとは対照的に軽やかだ。金髪碧眼の華やかな風貌に、誰とでも気さくに話せる柔和な雰囲気をまとっている。
だが、その飄々とした態度の裏には、繊細な観察眼と研ぎ澄まされた直感が隠されていた。
江ノ電が揺れながら進む中、二人は情報提供者が待っている喫茶店へと向かった。
店内にはクラシック音楽が流れ、レトロな内装が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
二人の姿を見て席から立ち上がったのは、顔なじみのオカルト雑誌記者・岡部だった。
岡部は痩せ型の身体にくたびれたジャケットを羽織り、どこか胡散臭さを漂わせていた。肩まで伸びた髪は無造作に結ばれ、ポケットから覗くノートには付箋やメモが乱雑に挟まっている。
その風貌は、まさに「オカルトに人生を捧げた男」といった印象だった。
彼は、過去のとある事件をきっかけに冥府庁と関わるようになった、いわゆる《《情報屋》》的な存在だ。
「悪いな、急に呼び出して」
「いえいえ、大丈夫です。こちらこそ助かります」
神崎が軽い調子で答え、アイリは何も言わず、手帳を開きながら静かに神崎の隣に座った。
「お二人さん、注文は何にする?」
こちらに向かって歩いてくる店員に気づき、岡部が尋ねる。アイリはメニューを見ずに即答した。
「ホットのブレンドコーヒーで」
「あ、じゃあ俺はレモンケーキと……」
「ホットのブレンドコーヒー、2つ」
神崎が言いかけた言葉を遮るように、アイリは店員に注文をした。
「余計なものは頼むな、神崎」
「ええ……」
神崎は苦笑しつつもそれ以上何も言わなかったが、その表情には落胆の色がありありと浮かんでいた。
店員が去った後、岡部がニヤリと笑う。
「相変わらずだな」
「……それより、早速話を聞こう」
アイリは淡々と返し、急かすようにペンを持つ。
「はいはい」
岡部は肩をすくめてから、周りをきょろきょろと確認し、少し声をひそめた。
「最近、江ノ島の岩屋洞窟付近で変な話が出てるのは知っているか?」
「変な話?」
神崎の眉がわずかに動いた。亡くなった人と再会したという街の噂は知っていたが、それとは違うのだろうか。
「ああ」
岡部はうなずき、頼んだコーヒーをもう一口飲んだ。
「夜な夜な、洞窟の奥から《《誰かの声》》が聞こえるって話だ。それも聞いたのは一人や二人じゃない」
そのとき、店員が飲み物を運んできた。神崎はコーヒーカップを受け取り、シュガーとミルクをたっぷり入れてかき回しながら、岡部の話に耳を傾ける。
アイリも静かにホットコーヒーのカップを手に取った。
「最初は波の音と勘違いするくらい微かなものだったらしい。でも、じっと耳を澄ますと、だんだん言葉に聞こえてくる。そしてある瞬間、気づくんだ。
──自分の名前が呼ばれているって」
「自分の名前を?」
神崎が低く問い返しながら、コーヒーを一口飲んだ。
「そう。そして、翌日──その声を聞いた人の何人かが、『死んだはずの人』を見たって証言してる」
神崎の指が、無意識にカップの縁をかすめた。
「へ、へえ。つまり、この街の異変に岩屋洞窟が関係してるってことですか」
思わずごくりと息を呑んでからそう尋ねる神崎に、岡部は少し笑った。
「まあ、そう急きなさんな。まだ、続きがある。──たとえば、ある男は十年前に亡くなった弟を見た。観光客の間をすり抜けるようにして、洞窟の前に立っていたらしい。声をかけようとしたら、その瞬間、すうっと消えるように人混みに消えて行ったとさ」
アイリは口を挟まず、メモを取りながら話に耳を傾けていたが、ふいに思い出したように資料の束をめくった。
「その証言についての報告は、すでに聞いている。が、言われてみると他の目撃証言の現場にも、ある程度の共通点があるな」
「岩屋洞窟……」
神崎も横から資料を覗き込んで、その目撃したという場所を確認した。
「岡部さん、岩屋洞窟について今回の騒ぎ以前にも何か噂を聞いたことありますか?」
神崎が尋ねると岡部は待っていましたとばかりに体を乗り出した。
「おうよ、以前も以前。あそこには江戸時代くらいから色々あってな……。洞窟の奥には“道”があるって話だ」
岡部は、江戸時代に記録されたという古い話を二人に語って聞かせた。
ある僧が修行のため、岩屋洞窟にこもっていた。その数日後、彼は壁の向こうに通じる“別の道”があることに気づく。
恐る恐る足を踏み入れると、奥には水たまりがあり、その先に燭台のような光が揺れていた。
そして、誰かの気配がし、低い声で名前を呼ばれた。
彼は逃げ出し、寺に戻ったが、それ以降、夜になると耳元で囁き続ける声に苛まれ、最後には発狂して崖から身を投げたとのだという。
「な? ──時代を超えて、今また“その声”が聞こえているって訳だ」
話し終えた岡部は満足げに腕を組み、どっしりと椅子にもたれた。
「まあ、昔話だと思うかもしれねぇが、最近の証言と妙に符合するだろ?」
神崎は資料をめくりながら考え込む。
「……じゃあ、洞窟の奥にあるっていう“道”は、今も存在する可能性がある?」
「そこだよ」
岡部が指を立て、楽しそうに笑う。
「昔は誰もが知っていたらしいが、地震や台風で崩れたり、潮の満ち引きで塞がれたりして、いつの間にか“伝説”になったって話だ。でも、たまにそういう《《異変》》が起こる。──誰かの名前を呼ぶ声とともにな」
アイリが静かに口を開いた。
「その道がもし本当に存在し、現代の人間が立ち入ったなら、どうなる?」
「さあな」
岡部は肩をすくめた。
「昔の坊さんは命からがら逃げ出した。現代の奴らは、死んだ人間に呼ばれるって話だ。──もし、そっち側に行っちまったら、もう帰ってこられないかもしれねぇな」
神崎は息をつめた。
「……なるほど。それで、江ノ島の異変と繋がるわけだ」
岡部は頷き、カップを持ち上げる。
「ただの都市伝説なら面白い話で済むが……調査課が動くってことは、そうもいかねぇんだろ?」
アイリは無言で頷いた。
「この件は、冥府庁でもすでに重要視されている。現場に向かう必要があるな」
神崎はコーヒーを飲み干し、岡部を見た。
「岡部さん、案内してもらえます?」
岡部は苦笑し、ゆっくりと首を振った。
「悪いが、俺は同行しねぇよ。あくまで一介の記者だからな。現場に踏み込むのは、あんたらの仕事だ」
神崎は肩をすくめた。
「まあ、そうですよね」
「だが、その代わり、俺も証言を集めておく。江ノ島界隈の連中にもう少し詳しく話を聞いてみるさ。──だから、進展があったらまた連絡くれ」
「ありがとうございます」
神崎が礼を言うと、岡部はカップを置き、にやりと笑った。
「礼なんていい。こちらも多少は記事にさせてもらうからな」
「やっぱりそうきますか」
神崎が苦笑すると、岡部は立ち上がり、コートを羽織る。
「さて、俺は俺で動くとするか。──あんたらも、気をつけな」
そう言い残し、岡部は店を後にした。
しばしの沈黙のあと、アイリが静かに立ち上がる。
「行くぞ」
神崎は小さく伸びをしてから、財布を取り出した。
「はいはい。──じゃあ、江ノ島の謎を解きに行きますか」
潮騒の音が、遠くで響いていた。