エピローグ
鎌倉の町に、穏やかな風が吹いていた。
江ノ電の車窓から見える景色は、どこまでも静かだった。
夜明けの薄い光が、古い瓦屋根を柔らかく染め、潮騒は静かに浜辺を撫でている。
どこかの家の軒先で、洗濯物を干す気配がした。
何事もなかったかのように、朝は訪れていた。
神崎はぼんやりと窓の外を眺める。
「……終わったんだな」
誰にともなく呟いたその言葉に、アイリは小さく目を閉じた。
電車を降りると、二人は言葉少なに歩き出す。
駅前の通りには、早朝の空気がまだ残っていた。
観光客の姿はなく、開店準備をする店の主人が、静かにシャッターを押し上げる音が響く。
神崎とアイリは、駅近くの古びた食堂へと足を向けた。
軒先にぶら下がる暖簾が潮風に揺れている。
店内に入り、それぞれの思考に沈みながら、料理ができるのを待つ。
静かな店内に、小さなラジオの音だけが流れていた。
ほどなくして運ばれてきたのは、湯気の立つしらす丼だった。
白くふわりと盛られた釜揚げしらすが、艶やかな米の上に広がっている。
「……アイリさん、ようやくまともな飯にありつけましたね」
神崎は苦笑しながら箸を取る。その声には、どこか力の抜けた響きがあった。
アイリは何も言わず、ただ黙って湯飲みを手に取る。
湯気がゆっくりと立ち昇り、二人の間の静けさを埋めていく。
神崎はしらすを一口、そっと口に運んだ。
柔らかな舌触りとともに、ほどよい塩気が広がる。
「意外としょっぱいですね、これ」
「しらすはそういうものだろう」
アイリは淡々と返しながら、ふと神崎の横顔を盗み見た。
彼の指先は箸を握ったまま、わずかに硬い。
視線が遠くを彷徨い、噛みしめるように咀嚼している。
そして——
気づけば、彼の目元にはうっすらと涙が滲んでいた。
本人も気づいていないのかもしれない。
けれど、頬に落ちる前に、彼はゆっくりとまばたきし、静かに息を吐いた。
しらすの塩気のせいだ、と言いたげな表情で。
アイリは視線を落とし、指先で湯飲みの縁をなぞる。
「……お前は、変わらないな」
思わず、そう呟いていた。
神崎が一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
アイリは視線を逸らし、湯飲みを口に運ぶ。
冥府庁の職員として、死者を送り返すことに特別な感傷は持たない。
それが役割であり、理だからだ。
けれど、神崎は違う。
彼は、一つ一つの死を見つめ、残された者の悲しみに寄り添おうとする。
その行為が無意味だとは思わない。
——ただ、アイリには決してできないことだった。
「……いや、なんでもない」
それ以上は言葉を続けず、アイリは再び湯飲みを口に運ぶ。
神崎はしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さな笑みを浮かべる。
「さっきの、もしかして褒めてます?」
アイリは視線を逸らし、淡々と答える。
「別に……そういうわけではない」
そっけない口調だったが、その仕草には曖昧なものがあった。
神崎はそれ以上追及せず、ふっと息を吐く。
だが、彼女の微かな逡巡を見逃してはいなかった。
いつものアイリなら、迷いなく言葉を切り捨てる。
けれど、今回はほんのわずかに間があった。
——少しだけ、違う。
神崎は気づかれないように口元を緩め、どことなく嬉しそうに再び箸を持ち直す。
そして、もう一度、ゆっくりとしらすを口へ運んだ。
江ノ島の海の向こうに、もう冥府の門はない。
けれど、確かに“彼ら”はそこにいた。
それを忘れまいとするかのように——。
外では、潮風が優しく吹いていた。
窓際の風鈴が、小さく澄んだ音を鳴らす。
その音に耳を傾けながら、神崎は目を閉じた。
——ほんの少しだけ、風の中に残っているような気がした。あの夜の、名残が。