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第九話:扉の向こう側に

 その時だった。

 門の向こうから、“何か”が覗く気配がした。


 風が止まる。潮騒が遠のく。

 代わりに、冷たく湿った空気が忍び寄る。


 ただの寒気ではない。

 まるで、見えない指先が皮膚をかすめるような、感触。


 神崎の指先が、微かに震えた。

 違和感。

 視界の隅で、闇がわずかに揺らめいた。


 影か。

 いや——違う。


 形のない何かが、そこに”在る”。

 名のない『存在』。


 門の向こうで、何かが待っている。

 矢口を、ずっと、ずっと——。


 神崎は喉の奥で息を詰まらせた。

 これは錯覚ではない。


 気のせいだと片付けることもできる。

 だが、神崎は知っている。


 この世のものではない何かが、確かに『こちら側』を見ている。


 それは、決して名を呼んではならないもの。気づいた時には、もう——“遅いもの”。


「佳織は……すぐそこにいるんだ……俺は……もうすぐ……」


 矢口の掠れた声が、張り詰めた空気に滲む。

 神崎は、静かに息を吸い込んだ。


「矢口さん——」


 言葉を選びながら、低く問いかける。


「——佳織さんはどうして五年もの間、一度もあなたの元へ戻ってこなかったんでしょうか?」


 矢口の動きが止まる。


「……何……?」

「もし、彼女が本当にそこにいるなら、何故今すぐ、ここにいるあなたの手を取らないんですか?」

「違う……佳織は……きっと……」


 矢口の声が震えた。

 だが、その言葉にはもはや確信がなかった。

 神崎は静かに言葉を重ねる。


「あなたは、佳織さんをどれほど強く想っても、決して手が届かないこの五年間を、どんな気持ちで過ごしてきましたか?」


 矢口の瞳が揺れる。


「……それは……」


「会いたくて、叫んで、手を伸ばして——それでも触れられない。どれだけここに通っても、声が届かない。すごく苦しかったですよね」


 矢口は唇を噛む。


 神崎の声は静かだったが、鋭く心の奥へと刺さっていく。


 周囲で亡き人の名を呼び続けていた人々の声が、ふいに途切れた。


「苦しく、悲しい。でも、それは——向こう側の彼女も同じなんです」


 矢口の目が、かすかに見開かれる。


「あの世の門を超えた者は、自由にはこちらへ戻れない。どれほど強く想っても、生きていた頃のようにはあなたに触れられない」

「……」

「何度も、何度も、ここへ足を運んで、あなたが呼ぶ声を聞いて——それでも、以前のようには近づけない」


 綻びを修復しながらアイリは静かにそれを聞いていた。

 神崎自身の経験が重ねられた言葉は、彼女の心をも微かに震わせた。


「彼女も、あなたと同じだったんです。あなたがここで立ち尽くしている間、彼女もまた、あなたの背中を見つめ続けるしかなかった」


 矢口の肩が震える。


「そんな……」


「それが、五年です」


 神崎の言葉が、静かに降り積もる。


「——どれほど、長い時間だったと思いますか?」


 矢口は拳を握りしめた。


「俺は……そんなつもりじゃ……」


「彼女もまた、そんなつもりじゃなかったでしょう。でも、ここであなたが立ち止まるたびに、彼女もまた、門の向こうで立ち尽くしてしまうしかないんです」


 風が吹き抜ける。

 潮の匂いが、どこか遠くに引いていく。


「それに……たとえ境界を超えて会えたとしても、もう生前のようには関われない。彼女の悲しみは募るだけです」


 ——その場に集まる人々もまた、微かに息を呑んだ。


 誰も言葉を発さず、行き場のない視線を門の向こうへ向けていた。


 神崎の言葉が、彼一人に向けたものではないことを、彼らもまた、感じていた。


 ここにいる誰もが——

 門の前で大切なものを喪った。

 戻らぬものを待ち続けた。


 それが、どれほど報われない時間だったかを——彼らは心のどこか奥底では気づいていた。


 そのとき——


「……し……ま……」


 波の音に紛れるように、細く、消え入りそうな声が響く。

 言葉の形を成さないほど、かすかに——


 けれど、それは確かに『佳織の声』だった。


「……佳織……? 佳織なのか?」


 門の向こう側から届く声を聞き、矢口の息が詰まる。

 ——彼女が、そこにいる。


「……」


 かすかな囁きが、風に溶ける。

 だが、それは言葉にならなかった。


 それでも——

 矢口には、わかった。


 彼女は今も、向こうで自分を見つめている。彼がここに来るたび、名を呼ぶたび、ただ黙って——


「……佳織……!」


 矢口の震える声が、夜の静寂に吸い込まれる。

 けれど、佳織の声は続かない。


 門を隔てているせいか、それとも——もはや言葉にできないほど遠くへ行ってしまったのか。


「俺は……っ、お前のいない人生なんて——」


 答えはない。


 ただ、潮騒の奥から、もう一度だけ、微かに——


「……し……ま……」


 それは、まるで彼の頬を撫でるように優しかった。


「……っ」


 矢口は膝をついた。


 わからない。

 彼女が何を伝えたかったのか、確かな言葉では残らなかった。


 けれど、それでも——


「俺は……自分の思いだけで、お前をそこに……」


 涙が、静かに零れる。


 ——彼の胸を締めつけていた五年間の痛みが、少しずつ溶けていくような気がした。


 門の向こうで、影がゆっくりと後ずさる。


 神崎は、静かに言葉を紡いだ。


「矢口さん——あなたが彼女を本当に愛しているなら、もう彼女を自由にしてあげましょう」


 静馬は顔を覆いながら、小さく微かに頷いた。


 門が、ゆっくり閉じ始める。

 アイリが鋭く叫ぶ。


「神崎、今だ!」


 神崎は封印の札を門に投げ込む。

 結界が収束し、境界が再び閉ざされる。


 ——その瞬間、アイリの膝が崩れた。


「っ……」


 風が止み、潮騒が戻る。



 ——夜が終わる。


 矢口はその場に膝をつき、静かに泣いた。


 そして、彼を取り囲んでいた人々もまた、門の方へ向かって、そっと頭を下げた。


 それは別れの祈りだったのか、それとも、自分自身に向けたものだったのか。


 ——それは、誰にもわからなかった。


 だが、潮騒が遠ざかる音の中で、確かに一つの時間が終わったのだと、誰もが感じていた。


 朝は、もうすぐそこまで来ていた。

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