プロローグ
鎌倉の海は、古くから数多の命を飲み込み、幾千の記憶を抱えてきた。波は静かに浜を洗い、紫陽花の咲く坂道には潮の香りが満ちる。
その潮風は千年を経ても変わることなく、長谷寺の境内に流れ込む。
──だが、この町では時折、「変わらないはずのもの」が変わることがある。
「……信じられません。あの人、三年前に亡くなったはずなんです」
夕暮れの境内で、一人の女性が小さく震えていた。
頬にかかった髪が風に揺れるのも気にせず、彼女はただ一点を見つめていた。
そこに立っていたのは、かつて愛した人の姿だった。
優しく微笑みながら、静かに歩いていく。
決して誰とも言葉を交わすことはなかった。誰かが視線を向けても、まるで気づかぬように、ただ黙ってどこかへ立ち去っていった。
この奇妙な光景を目の当たりにしたのは、その女性だけではなかった。
「死んだはずの者が、鎌倉に帰ってくる」
そんな噂が、町の隅々に広がり始めていた。
最初は、古くからある幽霊話や都市伝説の一つだと思われていた。
だが、目撃者の数が増え、少しずつ、町の人々の間に不穏な空気が漂い始める。
ある者は十年前に亡くなった弟を見た。また、ある者は数年前に失った祖母とすれ違った。
目撃者の中には、亡くなった事を知らずに再会を喜び、思わず声をかけた者もいた。
しかし、次の瞬間、強烈な違和感と共に凍りついた。決定的に“何か”が異なっていた。
それは表情かもしれない。姿勢かもしれない。
あるいは、そこに立つはずのない存在が生者にもたらす本能的な恐怖かもしれない。
──死者は、生者と交わらない。
いつの時代も、それは変わらぬ理だった。
だが今、この町では、その理が崩れつつあった。
⸻
冥府庁・調査課。
この異変の調査を命じられたのは、この世とあの世の境を管理する機関の調査員たちだった。
冥府庁では、不可解な死や霊的な異常を監視し、必要があれば介入する。
現世の事件であっても、あの世に影響を及ぼすものであれば、彼らの管轄となる。
そして、調査課の中でも、今回鎌倉に派遣されたのは──
冷静沈着なエリート調査員・黒野アイリと、その相棒である新人の調査員・神崎イサナの二人だった。
この世ならざるものを追い、境界の乱れを正すことが彼らの役目。
だが、今回の異変はただの幽霊騒ぎでは済まされないようだった。
──もしも、死者たちが本当に「帰還」しているのだとしたら。
彼らが求めるものは何なのか。
なぜ、この町に集まるのか。
そして、その背後には何があるのか。
調査の幕が上がる。
鎌倉の町に満ちる、静かなる異変の波。それを追うようにして、冥府庁・調査課の二人は、鎌倉へと向かうのだった。