エピローグ「そして誰もいなくなった」
夕暮れの光が斜めに差し込む部室に、もはや誰の声も響かなかった。
鹿島たちが去って一時間近く、水沢はただ一人、黄ばんだ原稿用紙に鋼ペンを走らせ続けていた。インクの染みる音だけが、静寂を微かに破っている。彼の原稿は終盤に差しかかっていた。
窓の外では、春の夕日がキャンパスの木々を赤く染めていた。風に揺れる若葉の影が、部室の壁に揺らめく模様を作る。
水沢はふと手を止め、顔を上げた。空っぽの部屋を見渡す。テーブルには空のティーカップ、織田が置き忘れた『ガンダム』のパンフレット、真鍋の赤いペン、西村のメモ用紙…彼らの痕跡がそこかしこに残っていた。
静かに立ち上がり、原稿をカバンに収める。その動作は几帳面で、長年の習慣が染みついたようだった。そして彼は窓辺に歩み寄り、遠くを見つめた。
「文化の交差点…」
彼はつぶやいた。その小さな声は誰にも聞かれることなく、静かな部屋に吸収されていった。
ゆっくりと、彼は自分の創作したSF小説の最終ページをカバンから取り出し、もう一度目を通した。そこには彼らが経験したようなマニア文化の誕生と発展が、遠い未来の視点から「歴史」として描かれていた。何十年も先の未来から、この瞬間を振り返るような文体で。
「種は蒔かれた」
再び彼の唇から言葉が漏れる。それは満足なのか、予言なのか、単なる感想なのか—判別しがたい声色だった。
水沢は慎重に原稿をカバンに戻し、部室の電気を消した。ドアに手をかけ、振り返ることなく部屋を出る。カチリ、という鍵の音が最後の音となった。
静かに歩く彼の姿は、廊下の薄暗がりに溶け込むようだった。その足取りは軽く、まるで長い任務を終えたかのように。彼は校舎を出て、夕焼けに染まるキャンパスの小道を歩き始めた。
遠くから聞こえる笑い声や話し声。それらは新しい時代の響きのようだった。水沢は立ち止まり、空を見上げた。まだ明るい西の空と、既に星の見え始めた東の空。
彼の姿は次第に遠ざかり、やがて春の夕暮れの中に溶けていった。彼がどこへ向かったのか、そして何者だったのか—それは誰も知らない。
ただ、彼の残した小説の最後には、こう書かれていた。
「そして彼らの蒔いた種は、やがてオタクと呼ばれる大きな森となり、数え切れない多様な木々が育ち、独自の生態系を形成していった。二十一世紀、その森は世界中に広がり、もはや誰もそれを無視することはできなくなっていた…」
(終わり)