第6話「銀河鉄道の切符」
「これが佐々木さんから送られてきたショップリストだ」
2月中旬の肌寒い日、SF研究会の部室には春を待つ緊張感が漂っていた。鹿島は机の上に広げた手書きの地図を指さす。そこには東京・秋葉原と新宿の周辺地図に、いくつかの場所が赤ペンで丸く囲まれていた。「アニメショップA」「同人誌専門店B」「模型店C」などの書き込みがある。
「すげぇな…こんなに専門店があるのか」織田が感心した様子で地図を覗き込む。
「東京は違うわね」真鍋も目を輝かせながら言った。「私たちの街じゃ、アニメグッズなんて本屋の片隅にちょっとあるくらいなのに」
「情報格差、情報偏在の典型例ですね」西村が分析的な口調で言った。「文化的中心と周縁の関係性が視覚化された地図と言えます」
「難しいこと言ってないで、計画を立てようぜ」織田が西村の肩を叩く。
鹿島は大きくため息をついた。「でも、このまま春休みに東京遠征なんて、本当にできるのかな…予算的に厳しいぞ」
「そこなんだよね…」真鍋も心配そうな表情になる。「コミケットは一日で帰ってきたけど、今回は複数日滞在するとなると…」
「宿泊費と食費、それに交通費…」西村が計算し始める。「最低でも一人3万円はかかるでしょうね」
「3万!?」織田が声を上げる。「そんな金、どこにあるんだよ…」
「奨学金は学費に消えるし…」鹿島も眉間にしわを寄せる。
部室に重苦しい空気が流れる。彼らは皆、この「東京遠征計画」に心を躍らせていた。織田が東京SFアニメ研究会の佐々木から得た情報によれば、春休み中に東京では様々なイベントが開催される予定だという。アニメ関連の展示会、同人誌即売会の小規模版、そして何より、佐々木たちが主催する「SFアニメ徹底討論会」。これらは彼らにとって、まさに「聖地巡礼」のような意味を持っていた。
「諦めるしかないのか…」織田が落胆した声で言う。
その時、部室の隅で黙々と原稿を書いていた水沢が、珍しく声を上げた。
「合宿として申請してはどうだ」
全員が驚いて水沢の方を振り向く。
「合宿?」鹿島が首をかしげる。
「そう、研究合宿だ」水沢は淡々と言った。「大学のサークル活動として、研究合宿を行う場合、補助金が出る制度がある」
「そんな制度があったのか!?」鹿島の目が輝く。
「あるよ」水沢は静かに頷いた。「俺がここに来た頃からずっとある。あまり知られていないが」
「それはどうやって申請するんですか?」真鍋が食い入るように水沢を見る。
「学生課に申請書がある。目的、場所、日程、予算計画を書いて提出すれば、審査される」
「補助金はいくらくらい出るんだ?」織田が興味津々で尋ねる。
「交通費と宿泊費の半額程度」水沢は簡潔に答えた。「一人最大1万5千円まで」
「それなら行けるかも!」真鍋が希望を取り戻す。
「ただし…」水沢は続ける。「それなりの研究計画と、帰ってからの報告書が必要だ」
「研究計画なら俺たちには得意分野じゃないか」鹿島が自信たっぷりに言う。「『現代SF映像作品における表現技法の発展と影響分析』とかどうだ?」
「いいですね」西村が共感する。「研究テーマとしての妥当性は十分あります」
「報告書も『星雲評論』の特別号として作れば一石二鳥だな」織田が興奮気味に言う。
「ちょっと待って」真鍋が冷静に言った。「本当にそんな制度があるなら、なぜ今まで使ってこなかったの?」
「単純に知らなかったからだろ」織田が肩をすくめる。
「いや、そうじゃなくて…」真鍋は考え込む。「SF研究会って、大学に正式に認められたサークルなの?」
一瞬の沈黙が部室を支配する。
「えっと…」鹿島が困った表情になる。「正式な認可は…」
「ないんだよな」織田が率直に言った。「我々は準サークル扱いで、部室は文学部の厚意で借りている状態だ」
「そうだったの!?」真鍋は驚いた様子。
「補助金を受けるなら、正式なサークル登録が必要だ」水沢が静かに言った。
「じゃあ、登録しようよ!」真鍋が提案する。
「そう簡単にはいかないんだ」鹿島が説明する。「登録には最低10人のメンバーと、教員の顧問が必要なんだ」
「でも、私たちは…」真鍋は数える。「鹿島さん、織田さん、西村さん、私、そして水沢さんの5人…」
「俺は正式メンバーじゃない」水沢が小さく言った。「幽霊会員だ」
「じゃあ4人か…」真鍋は肩を落とす。
「あと6人必要ということか」西村が分析する。「そして顧問の教員も…」
部室は再び重苦しい空気に包まれる。しかし、鹿島の表情が急に明るくなった。
「待てよ…これはチャンスじゃないか!」
「どういうことだ?」織田が首をかしげる。
「我々、ずっと準サークル状態で活動してきたけど、これを機に正式登録を目指そうじゃないか」鹿島は情熱的に言った。「新入生勧誘の時期も近いし、思い切って宣伝活動をして10人を目指すんだ!」
「なるほど!」織田も目を輝かせる。「『星雲評論』も完売したし、SF研究会の認知度も上がってるはずだ」
「そして顧問は…」鹿島は考え込む。「文学部の高橋先生はどうだろう?彼、昔SFを書いてたって噂だし」
「とにかく、やってみる価値はありますね」西村も珍しく前向きな発言をする。「文化的認知を獲得するための戦略的行動として」
「じゃあ、二つの計画を並行して進めましょう」真鍋がまとめる。「一つは正式サークル登録の準備、もう一つは春休みの東京遠征の計画」
「よし、決まりだな!」鹿島が力強く言った。「水沢、情報提供ありがとう」
水沢は静かに頷き、再び自分の原稿に戻った。彼の表情からは何も読み取れないが、どこか満足げな様子にも見えた。
「さて、新入生勧誘のポスターを作らないとな」織田が早速動き出す。「俺が絵を描くよ」
「私は企画書を作ります」と西村。「文化的意義を明確に示す必要がありますから」
「私は高橋先生に会いに行ってみるわ」真鍋が申し出る。「女子学生の方が話を聞いてもらいやすいかもしれないし」
「俺は学生課に行って、正式登録の手続きについて詳しく聞いてくる」鹿島が言う。
彼らはそれぞれの役割を確認し合い、次の一歩を踏み出そうとしていた。
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翌日の午後、文学部の研究室棟。真鍋は高橋教授の研究室の前で深呼吸した。
「失礼します」と、彼女はドアをノックした。
「どうぞ」落ち着いた男性の声が返ってくる。
研究室に入ると、50代半ばくらいの穏やかな雰囲気の男性が本棚の前に立っていた。灰色が混じった髪、優しい目元、そしてどこか懐かしさを感じさせる風貌だ。
「あの、高橋先生ですよね。文学部3年の真鍋と申します」
「ああ、真鍋さん」高橋教授は微笑みながら言った。「日本近代文学のゼミでしたね」
「はい、一年生の時に受講しました」真鍋は緊張気味に言った。「今日は、SF研究会についてご相談があって…」
「SF研究会?」高橋教授は興味を示した。「聞いたことがあります。準サークル扱いのグループでしたね」
「はい、そうなんです」真鍋は一気に説明する。「実は、春休みに東京で研究合宿を行いたいと思っていて、そのためには正式サークルになる必要があるんです。そこで、顧問になっていただけないかと…」
高橋教授は黙って真鍋の話を聞いていた。そして、ふと本棚に目をやり、一冊の本を取り出した。
「これを知っていますか?」
それは『日本SFの夜明け』というタイトルの本だった。著者名を見て、真鍋は息を呑んだ。「高橋誠一」—まさに目の前にいる教授だった。
「先生、SF作家だったんですか!?」
「『だった』というのが正確ですね」高橋教授は少し寂しそうに笑った。「若い頃、短編をいくつか書いていました。今は研究と教育に専念していますが…」
「素晴らしいです!」真鍋は目を輝かせる。「実は、私たちSF研究会は同人誌『星雲評論』を出しているんです。コミケットでも頒布して…」
「コミケット?」高橋教授が懐かしそうに言う。「あの同人誌即売会ですか。初期の頃に一度参加したことがあります」
「えっ!」真鍋はますます驚く。「先生、本当にSFに詳しいんですね」
「昔の話ですよ」高橋教授は照れたように言った。「でも、若い人たちがSFに情熱を持っているのは嬉しいですね」
「では、顧問になっていただけますか?」真鍋は期待を込めて尋ねる。
高橋教授は少し考え込んだ後、「条件があります」と言った。
「どんな条件でも」真鍋は即答する。
「私も『星雲評論』に一編、寄稿させてください」
「え?」真鍋は予想外の申し出に驚いた。
「昔の情熱を少し思い出させてもらいたいんです」高橋教授は穏やかに微笑んだ。「『現代SF文学の系譜』といった論考はいかがでしょう?」
「もちろん!光栄です!」真鍋は飛び上がるほど嬉しかった。「次号の目玉になります!」
「では、顧問を引き受けましょう」高橋教授は頷いた。「正式な手続きについては、学生課と相談してください」
「ありがとうございます!」真鍋は深々と頭を下げた。
研究室を出た真鍋は、廊下で小さくガッツポーズをした。顧問問題はこれで解決。残るは部員数だけだ。
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一方、鹿島は学生課でサークル登録について詳しく聞いていた。
「正式登録の期限は?」
「3月末までです」職員は事務的に答える。「新年度からの活動開始のためには」
「部員は最低10人必要で、顧問は教員一名と」
「そうです。あと活動計画書と予算計画書も提出してください」
鹿島はメモを取りながら、頭の中で計算していた。「現在の部員は4人…あと6人必要か」
「それと、サークル紹介のパンフレットも作っておくといいでしょう」職員は付け加えた。「4月の新入生オリエンテーションで配布できますから」
「ありがとうございます」
学生課を出た鹿島は、次の行動を考えていた。「まずは部員募集のポスターを急いで作らないと…」
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夕方、SF研究会の部室に全員が集まった。それぞれの進捗報告が始まる。
「高橋先生、顧問を引き受けてくれることになったわ!」真鍋が嬉しそうに報告する。「しかも、先生は昔SF作家だったのよ!」
「マジか!」織田が驚く。「それは強い味方だな」
「しかも『星雲評論』に寄稿してくれるって」
「それは大ニュースだ」鹿島も喜ぶ。「俺も学生課で聞いてきたぞ。期限は3月末だ。あと6人部員を増やせれば、正式登録ができる」
「これが部員募集のポスターの原案だ」織田は手描きのイラストを広げる。宇宙船と惑星をバックに「SF研究会 部員募集!」と書かれている。「どうだ?」
「いいね!」真鍋は目を輝かせる。「あとは、コピーして学内に貼り出せばいいわね」
「私は企画書を作成しました」西村が眼鏡を直しながら言う。「『現代視覚メディアにおけるSF表現の研究—アニメーション作品を中心に—』というテーマです」
「おお、それっぽいな」織田が感心する。
「あとは部員だな…」鹿島は思案顔。「どうやって6人も集めるか…」
「私、アイデアがあるわ」真鍋が言う。「香港映画研究会の陳さんたちに協力してもらうのはどう?」
「どういうこと?」
「前に合同で印刷したでしょ?あの時、仲良くなったじゃない。彼らも正式サークルじゃなかったはず。一緒に登録すれば、人数も集まるんじゃないかしら」
「なるほど!」鹿島は目を見開いた。「異なるジャンルの融合…それもアリだな」
「『総合映像研究会』とか、名前を変更するのか?」織田が尋ねる。
「いや、それぞれのアイデンティティは保ちつつ、正式には一つのサークルとして登録するんだ」鹿島が説明する。「内部で『SF班』と『香港映画班』に分かれるような形で」
「理にかなっています」西村も同意する。「文化的多様性を維持しながら、制度的には統合するという折衷案は理想的です」
「じゃあ、陳さんに連絡してみるわ」真鍋が言う。
水沢は黙って彼らのやり取りを聞いていた。そして珍しく、かすかな微笑みを浮かべた。
「融合の始まりだな」と小さくつぶやいた。
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翌週、SF研究会と香港映画研究会の合同会議が開かれた。陳を含む5人のメンバーが来ており、両方のグループを合わせると9人になった。
「あと1人足りないね」陳が言う。
「そうなんだ…」鹿島はため息をつく。
「でも心配ないよ」陳は微笑んだ。「僕たちの友人で、時々来る準メンバーがいるんだ。誘えば来てくれるはず」
「それは助かる!」
「それじゃ、新しいサークル名は何にする?」陳が尋ねる。
議論の末、彼らは「映像文化研究会」という名前に決めた。SF、香港映画、そして将来的には他のジャンルも包含できる、幅広い名称だ。
「これで東京遠征の道が開けたわね」真鍋は嬉しそうに言った。
「ああ」鹿島も頷く。「学生課に申請すれば、補助金も出るはずだ」
織田は窓の外を見ながら、つぶやいた。「東京か…俺たちの『銀河鉄道』が、また走り出すんだな」
「私たちの冒険はまだ始まったばかりね」真鍋が応える。
彼らはまだ知らなかった。この小さな一歩が、やがてジャンルを超えた「オタク文化」という大きな潮流の一部となっていくことを。1979年の早春、彼らの「銀河鉄道」は、新たな星々へと向かって走り始めようとしていた。
(つづく)