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第2話「謄写版銀河の果て」

「まったく、これがそんなに難しいものだとは思わなかったぞ…」


鹿島は眉間にしわを寄せながら、謄写版(ガリ版)原紙の上でペンを走らせていた。11月初旬の肌寒い日曜日、SF研究会の部室は同人誌制作の熱気に包まれていた。


「これでも昔に比べりゃ楽になったんだぜ」と織田が言う。「蝋引きの原紙に針で文字を彫っていた時代もあったらしいからな」


「そんな時代、知ってるのか?」と鹿島。


「いや、鉄腕アトムの手塚治虫の伝記で読んだだけだ」


窓の外では枯れ葉が舞い、キャンパスの木々はすっかり冬の装いだ。部室の中央に広げられた新聞紙の上には、インクやステンシル用具、そして彼らの野心的な同人誌企画の証拠が散らばっていた。


「西村、原稿はどうなってる?」と鹿島が尋ねる。


「『アニメーションにおける宇宙表現の哲学的考察』、只今執筆中です」と西村は眼鏡を直しながら答えた。「しかし手書き原稿からガリ版への転写は、私の美学的センスと相容れないものがあります…」


「言い訳するな」織田が笑う。「お前の字が汚いだけだろ」


西村は不満そうな表情を浮かべたが、反論はしなかった。それが事実だからだ。


「あの、みんな」真鍋が部室のドアを開けて入ってきた。「香港映画研究会の人たちに話を聞いてきたの。彼ら、印刷機の使い方に詳しいんだって」


「ほう、それは助かる」鹿島が顔を上げる。「ところで香港映画研究会って、どんなところなんだ?」


「主に70年代のカンフー映画を研究してるみたい。今はジャッキー・チェンの映画『酔拳』にみんな夢中みたい。来週の上映会に誘われたわ」


「ジャッキー・チェン?」織田の目が輝いた。「あの『ドランクモンキー』か?俺、見たぞ!彼のアクションは芸術的だ。あの猿拳法のシーンなんて、まるで—」


「おい、話を逸らすな」鹿島が遮る。「印刷機の話だろ」


「それがね」真鍋は嬉しそうに続けた。「彼らが使ってる学内の謄写版印刷機を貸してくれるって。ただし条件があって…」


「条件?」西村が眉を顰める。


「彼らの同人誌も一緒に刷らせてほしいんだって。印刷機の使用時間には制限があるから、まとめて使いたいみたい」


「まあ、それは悪くない条件だな」鹿島は考え込みながら言った。「彼らの同人誌は何の内容なんだ?」


「『酔拳』の格闘技分析とジャッキー・チェンのアクション哲学についてだって」


「意外と真面目なんだな」と織田。


「いいんじゃない?お互いに協力できるし」真鍋は満面の笑みを浮かべる。「それに、彼らも創刊号らしいから、同じ初心者同士で心強いわ」


部室の隅では、水沢がいつもの鋼ペンでインクを滴らせていた。彼の存在は空気のようだったが、そこにいることが皆に安心感を与えていた。


「水沢さんは同人誌に寄稿してくれないの?」と真鍋が尋ねる。


水沢は静かに顔を上げ、彼女を見つめた。「俺はオブザーバーだ」と短く答え、また自分の原稿に戻った。


「水沢さんのSFは商業誌にも載るレベルなのに…」と鹿島はため息をついた。「もったいないな」


「無理強いするな」と織田。「それより、原稿の進捗はどうだ?」


「表紙イラストはどうなった?織田、お前描くんだろ?」と鹿島。


「ああ…」織田は少し照れくさそうに答えた。「一応描いてみたんだが…」


彼はバッグから一枚の紙を取り出した。そこには『宇宙戦艦Y』風の戦艦と、『銀河鉄道9』風の列車が宇宙空間を飛行する様子が描かれていた。絵の技術は素人レベルだったが、そこには確かな情熱が込められていた。


「おお…」真鍋が目を輝かせる。「いいじゃない、これ!」


「本当か?」織田は不安そうに尋ねる。


「ええ、素敵よ。特に宇宙船の細部まで描き込んでるのが素晴らしい」


「まあ、エンジンの部分とか艦橋の構造とか、できるだけ設定に忠実に描いたつもりだけどな…」


「さすが織田、マニアらしいこだわりだ」と鹿島が笑う。


「うるせえよ」織田は照れ隠しに言い返した。


「しかし、タイトルはどうする?」と西村が実用的な問題を提起した。「我々の同人誌を何と名付けるか、それは重要な問題だ」


「そうだな…」鹿島は考え込む。「『SF研究会会報』じゃ味気ないしな」


「『銀河系評論』とか?」と織田が提案する。


「ちょっと硬すぎない?」と真鍋。


「『星間飛行』では?」と西村。


「どれもピンとこないな…」鹿島は腕を組む。


突然、水沢の静かな声が部屋に響いた。「星雲」


皆が彼の方を振り向く。


「星雲…か」鹿島は言葉を反芻する。「それはいいな。多様な星々が集まる場所、まさに我々の評論集にぴったりだ」


「『星雲評論』…悪くないわね」と真鍋。


「決まりだな」と織田も賛成する。


「では、副題は?」と西村。


「『マニアたちの饗宴』とかどうだ?」と鹿島が笑いながら言う。


「冗談じゃないぞ。もっとかっこいいのがいい」と織田は不満そうに言った。


「『SF映像論集』とか?」と真鍋が提案する。


「シンプルでいいな」鹿島が頷く。「では『星雲評論—SF映像論集—』で行こう」


そうして彼らの同人誌のタイトルが決まった。これから彼らが作り上げる小さな「星雲」は、やがて大きな文化の銀河系の一部となる運命を、まだ誰も知らなかった。


---


「さて、目次をまとめよう」と鹿島が言う。「各自の原稿タイトルを確認するぞ」


彼はノートに皆の企画をまとめていった。


「俺のは『宇宙戦艦Y』における艦船設計の科学的考察」と織田。


「私は『アニメーションにおける宇宙表現の哲学的考察—視覚と認識の相関関係—』です」と西村。


「私のは『SFアニメにおける女性キャラクターの変遷—『銀河鉄道9』メーテル分析—』」と真鍋。


「俺は『人類は宇宙に行くべきか—現代SFに見る宇宙開拓の倫理—』だ」と鹿島。


「なかなか充実した内容だな」鹿島は満足げに言った。「あとは香港映画研究会の原稿も加えて…計60ページくらいになるか」


「ところで真鍋」織田が尋ねる。「コミケってのは、いつ頃なんだ?」


「次回は12月の終わりよ。クリスマス過ぎかな」


「間に合うのか?」と鹿島が心配そうに言う。


「間に合わせましょう」と西村。「これは我々の知的探求の証明なのですから」


「その意気だ!」と織田が力強く言う。「とりあえず原稿を完成させて、来週には印刷に取りかかろう」


「香港映画研究会との共同作業、楽しみだわ」と真鍋。「彼らとの交流で、また新しい視点も得られるかもしれないし」


「まあ、アニメとカンフー映画じゃかなり違うが…でも確かに映像表現という点では共通点もあるな」と鹿島は考え込む。


「異なるジャンルの交流…これは文化人類学的に見ても興味深い現象です」と西村は分析的な口調で言った。


「堅苦しいこと言うなよ。単に一緒に印刷機を使うだけだろ」と織田はくつくつと笑った。


「でも、こうやって違うジャンルのファン同士が接触することで、新しい文化が生まれていくのかもしれないわね」と真鍋は夢見るような表情で言った。


その言葉に、水沢がふと顔を上げた。彼の目には、遠い未来を見通すような光があった。


「マニア文化の交差点…」と水沢は小さく呟き、再び自分の原稿に戻った。


無意識に、彼は歴史的な瞬間を目撃していた。異なるジャンルのファン文化が接触し、融合していく—それは後に「オタク文化」と呼ばれるものの形成過程だった。だが、その時の彼らにはまだわからない。彼らがしていることの社会的・文化的意義を。


「よーし、じゃあ各自原稿を進めよう!」と鹿島が声を上げる。「締め切りは今週末だ」


「えっ、そんな急に?」と織田。


「間に合わせるしかないだろ。印刷にも時間がかかるんだから」


「わかったよ…」織田は渋々同意した。


彼らの前には、原稿執筆、編集、印刷、製本という長い道のりが待っていた。だが、その過程こそが、彼らの「マニア」としての情熱を形にし、文化として定着させていく第一歩となる。


一方、部室の窓からは初冬の夕暮れが見えていた。オレンジ色の光が部屋を染め、彼らの熱気を柔らかく包み込む。この光の中で、彼らの「星雲」は少しずつ形を成していくのだった。


---


翌日の夕方、真鍋は香港映画研究会の部室を訪れていた。


「こちらが私たちの原稿よ」と真鍋は封筒を研究会の代表に手渡した。


「ありがとう。我々のもここにある」と答えたのは、目の細い優しい表情の男子学生だった。「陳と言います。香港映画研究会の代表です」


「真鍋です。SF研究会から来ました」


「SF研究会か…実は私も『銀河鉄道9』のファンなんだ」と陳は照れくさそうに言った。


「本当?意外ね」と真鍋は目を丸くする。


「なぜだい?」


「いえ、香港映画研究会の人がSFアニメにも詳しいとは思わなかったから」


「ジャンルの壁なんて、本当はないんじゃないかな」と陳は微笑む。「優れた映像表現に国境もジャンルも関係ない。ジャッキー・チェンのアクションも、『銀河鉄道9』の宇宙描写も、観る者の心を動かす力がある点では同じだよ」


「そうね…その通りだわ」真鍋は感心したように頷いた。


「来週火曜日、午後から印刷機を予約してある。君たちも来られるかい?」


「ええ、もちろん」


「じゃあ、その時に会おう。我々の『カンフー評論』と君たちの『星雲評論』、共に良い船出になることを願ってるよ」


陳は紅茶を淹れながら、ジャッキー・チェンの『酔拳』について熱く語り始めた。真鍋はその情熱に圧倒されながらも、彼の話を興味深く聞いていた。


「クンフー映画の型の美しさは、まるで惑星の軌道のようだ」と陳は言う。「一見混沌としていても、そこには確かな法則と調和がある」


「それ、西村君が言いそうなことね」と真鍋は思わず笑った。


「西村?」


「うちの理論派。彼なら君と話が合うと思うわ」


こうして、異なるジャンルのマニア同士の交流が始まった。それは小さな一歩だったが、やがて大きな流れとなる文化的交差の始まりだった。


印刷機の共同使用という実務的な理由から始まった交流は、思いがけない友情と文化的接点を生み出しつつあった。真鍋はこの出会いに、何か運命的なものを感じていた。


部室に戻る途中、真鍋は夕焼けに染まるキャンパスを見上げた。空には最初の星が輝き始めていた。まるで彼女たちの「星雲」が生まれ出る予兆のように。


(つづく)

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