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第1話「マニア星雲の彼方から」

「宇宙空間における恒星間物質の密度は、1立方センチメートルあたり約1原子。しかし、あらゆる天体が放つ電磁波は、その希薄な空間に意志と意識を運ぶ—」


SF研究会の部室の隅、いつからそこにいたのか定かでない男が、黄ばんだ原稿用紙に鋼ペンでインクを滴らせていた。水沢健一。大学側の公式記録には存在しない「幽霊会員」だったが、SF研究会のメンバーたちは、彼がかつての創設者の一人だということを知っていた。年齢不詳、長い前髪が目元を隠し、いつも同じ古びた黒のジャケットとジーンズという出で立ち。彼は執筆に没頭すると周囲の存在を完全に忘れ、別次元に行ったかのようになる。


一方、部室の中央で繰り広げられていた議論は熱を帯びていた。


「だから言っただろ、『スタートレック』の亜空間理論は完全に現代物理学と整合性が取れているんだよ!ワープ航法の理論的根拠として、アインシュタインの相対性理論の拡張と見なせば—」


「バカ言え、相対性理論の何を知ってるんだよ。それより、『スターウォーズ』のハイパードライブの方が映像的にも美しいだろう。あの星の光が伸びていく表現は、時空間の歪みを視覚的に—」


「あのさ、二人とも…」


SF研究会の部室はいつも通り活気に満ちていた。1978年の秋、地方国立大学の古い文学部棟の最上階。窓からは銀杏並木が見え、その黄金色はまるで遠い惑星のような異世界を思わせる。壁には『宇宙戦艦Y』や『S・W』のポスターが貼られ、棚にはSF小説が所狭しと並んでいる。部室の中央に置かれた古いブラウン管テレビの前で、今日も「宇宙の真理」をめぐる議論が交わされていた。


「二人とも、それぞれの作品の宇宙観を尊重しようよ。つまり、個別の創作宇宙における整合性が重要なんであって…」仲裁に入ったのは、鹿島直樹だ。27歳、理学部博士課程の院生で、SF研究会では顧問的な立場。黒縁メガネと少し禿げかかった頭が特徴的な男性だ。


「鹿島さん、また八方美人ですか」と、アーガイル柄のセーターを着た西村和也が冷ややかに言った。文学部3年の彼は、常に理論的厳密さを求める性格で、研究会では「理論の西村」として知られていた。「芸術作品におけるリアリズムの担保には、内的整合性と外的整合性の両方が求められるわけです。内的整合性は作品内の論理の一貫性、外的整合性は現実世界の知見との適合性…」


「うるせえよ、西村。お前の話はいつも回りくどいんだよ」


そう言って西村を遮ったのは、リーゼントヘアとジーンズという、どこかロカビリーを彷彿とさせる出で立ちの織田健一だ。4年生の彼は、名目上はSF研究会の部長だったが、実際のところ鹿島の言うことを聞いているに過ぎなかった。


「そういう単純な思考回路だから、『宇宙戦艦Y』のストーリーの深層に気づかないんだよ」と西村は反論する。


「何だと?」


織田と西村の間に火花が散る。そんな光景は、この部室では日常茶飯事だった。


「あの、そろそろ始まるよ」


静かな声が部室に響いた。皆の視線がテレビに向けられる。今日は待ちに待った『銀河鉄道9』の放送日だった。テレビから流れるオープニング曲に、部室の空気が一変する。


議論をしていた者たちは、瞬時に姿勢を正してテレビの前に集まった。画面に映る宇宙船と、そこに乗る個性的なキャラクターたち。彼らは一瞬にして物語の世界に引き込まれていく。


「誰かちゃんと録画してる?」と鹿島が心配そうに訊ねる。


「任せろよ」と織田。「ベータマックスは調子良いぜ」


部室の片隅にある大きめのビデオデッキ、ソニー製のベータマックスは、部の貴重な共有財産だった。テープは高価だったが、放送を逃すわけにはいかない。彼らにとって、それは神話や聖典を記録するのと同じくらい重要な行為だった。


「織田、音量上げてくれる?」


唯一の女性会員、真鍋香織が言った。文学部3年の彼女は、長い黒髪とやや大きめの眼鏡が特徴的だ。初めは少女漫画に興味を持っていたが、大学でSFの魅力に目覚め、この男性優位の空間に飛び込んできた勇気ある女性だった。


「おう」と織田はボリュームを上げる。


画面に映し出されるのは、個性的な宇宙海賊たちと、彼らの冒険。1970年代後半、アニメーションの表現技術はまだ発展途上だったが、それでも彼らの想像力を掻き立てるには十分だった。


「ねえ、この宇宙船の推進システムって何なんだろう?」と真鍋が質問する。


「反物質エンジンじゃないか」と織田が即答。


「いや、設定資料によれば波動推進装置だぞ」と鹿島が訂正する。


「波動推進?それって物理的に可能なの?」


「フィクションだからな」と織田は肩をすくめる。


「いや、これは興味深い問題提起だ」と西村が姿勢を正す。「波動と粒子の二重性に着目すれば、理論上は…」


そして再び、彼らの議論が始まる。物理法則、設定の整合性、ストーリーの伏線…彼らにとって、フィクションの世界を分析することは、現実世界を理解するのと同じくらい真剣な営みだった。


30分のアニメが終わり、エンディングテーマが流れ始める。


「来週はどうなるんだろうね」と真鍋。


「船長が捕まっちまったからな…」と織田は腕を組む。


「前回の伏線から推測すると、副船長の過去の因縁が関係してくるんじゃないかな」と鹿島が分析を始める。「あそこで出てきた古い写真が意味するのは…」


部室の隅で、水沢が静かにペンを置いた。誰も気づかないが、彼は会話を聞きながら、自分のSF小説の新たな展開を思いついたようだ。彼の物語は、この現実の群像劇とは違う、遥か彼方の未来を描いていた。だが、その根底にあるのは同じ「人間の想像力」だった。


「おい、録画テープどうする?回覧順番決めとかないとまた揉めるぞ」と織田が言う。


「前回みたいな事故は勘弁してくれよ…」鹿島は溜息をつく。


前回のトラブルは、貴重な『惑星大戦Va』のテープが、会員の一人によって誤って他の番組で上書きされるという惨劇だった。それ以来、テープの管理は厳格になっていた。


「あの、みんな」と真鍋が声を上げる。皆の視線が彼女に向く。「ちょっといいニュースがあるの」


彼女はバッグから一枚のチラシを取り出した。「コミックマーケット」というイベントの告知だった。


「同人誌即売会?」と鹿島は首を傾げる。


「そう、東京で開かれるの。プロじゃないアマチュアの漫画家やライターたちが集まって、自分たちの作品を売り買いするイベントなんだって」


「へぇ…」織田は興味なさそうに言った。「で?」


「私たちも出てみない?」と真鍋。


一瞬の沈黙が部室を支配する。


「はぁ?」織田が驚いた表情を見せる。「俺たちが何を出すっていうんだよ」


「SFアニメの評論とか、考察とか。西村さんなんか、いつも素晴らしい分析してるじゃない」


西村は眼鏡を直しながら、少し照れたような表情を見せる。「まぁ、私の思索の一端を世に問うことには、ある種の意義があるかもしれないが…」


「待て待て」と鹿島が手を振る。「同人誌って、製作費とか印刷とか、そういうのどうするんだ?」


「それが、私、調べてみたの」と真鍋は目を輝かせる。「学内の印刷機を使えば、そんなに高くないし…」


「うーん…」鹿島は懐疑的な表情だ。「ただでさえ大学院の研究が忙しいのに…」


「やってみようぜ」


突然、織田が積極的な態度を見せた。


「えっ?」真鍋は驚いた表情。


「なんだよ。俺だって、『宇宙戦艦Y』の艦船設計の考察とか書いてみたいと思ってたんだよ」


「おお、それは新しい織田だな」と鹿島が笑う。


「うるせえよ」織田は少し照れた様子で言い返す。


「私も賛成です」と西村。「我々の知的探求の成果を形にすることは、存在証明としても重要でしょう」


「じゃあ、決まりね!」真鍋は嬉しそうに手を叩く。「次回ミーティングまでに、それぞれ書きたいテーマとか考えておいて」


「原稿用紙は俺が持ってるから、必要なら言ってくれ」と鹿島が申し出る。


「いやいや、原稿用紙じゃなくてさ、もっとちゃんとした冊子にするんでしょ?」と織田。


「そうねぇ…」真鍋は考え込む。「表紙のイラストとか、誰か描ける人いないかな…」


この会話の間中、部屋の隅にいる水沢の存在は、ほとんど皆の意識から消えていた。だが、彼は静かに全てを観察している。


「初めから完璧を求めるな」


突然、水沢の静かな声が部屋に響いた。皆が驚いて彼の方を振り向く。


「水沢さん…」と真鍋が驚いた表情で言う。


「どんな文化も、最初は未熟だ。だが、それが育つかどうかは、最初の一歩を踏み出せるかにかかっている」


水沢は珍しく長い言葉を紡いだ。そして、また原稿に向き直る。部屋には一瞬の静寂が流れた。


「水沢さんの言う通りだね」と鹿島が口を開く。「よし、やってみよう。我々の『初めの一歩』として」


「おう!」と織田が力強く同意する。


「理論的整合性を確保しつつ…」と西村。


「ありがとう、みんな!」と真鍋。


そうして、SF研究会の新たな挑戦が始まろうとしていた。彼らはまだ知らない。この小さな「同人誌制作」という試みが、やがて「オタク文化」と呼ばれる大きな潮流の一部になることを。1978年の秋、彼らの「マニア」としての活動は、新たな段階に入ろうとしていた。


---


部室を出た真鍋は、夕暮れの空を見上げた。オレンジ色に染まった雲が、まるで遠い惑星のように美しい。


「真鍋さん」


振り返ると、そこには織田が立っていた。


「どうしたの?」


「いや、その…同人誌のこと、俺も協力するから」


普段は強がる織田だが、今は少し照れくさそうだ。


「ありがとう。織田さんが協力してくれるのは心強いわ」真鍋は微笑んだ。


「俺、実は描くのも好きなんだ…下手だけどさ」と織田は恥ずかしそうに言う。「表紙とか、手伝えるかも」


「本当?それ、すごく助かるわ!」


「うん、まあ…よろしく」


織田はそう言って、急いで歩き去った。真鍋は彼の後ろ姿を見つめながら、小さく微笑む。


「面白くなりそう…」


真鍋の呟きは、秋の風に溶けていった。


校舎の窓からは、水沢の姿が見えた。彼は部室に残り、窓辺に立って夕焼けを眺めている。その瞳に映るのは、現在の風景か、遠い未来か、あるいは過去の記憶か—誰にもわからない。彼の書くSF小説のように、これから紡がれる物語は、まだ可能性に満ちていた。


(つづく)

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