贖罪
学園都市ロゼリアは、元は羊毛と小麦で細々と暮らしているような、牧歌的だが取り立てて秀でたところのない、名すら持たない村だった。
それが変わり始めたのは、百年ほど前のことだ。
今でもヒツジの飼育や様々な農作物の生産量は国内随一だが、それ以上にロゼリアの名を国中に知らしめているものは、村の中央にあるロゼリア学園だ。
学園は、下は五歳から上は制限なく受け入れており、子どもたちに基本的な読み書き計算を学ばせるだけでなく、その触手は様々な分野にわたる研究にも及んでいる。
国中どこに行ってもロゼリアの名を知らない者はおらず、ロゼリアと聞けば、学問の街だと十人中十人が答えるだろう。
そんなロゼリアの郊外で。
「ちょっと、すみません」
湖のほとりで湖面に釣り糸を垂らしていた老人は、かけられた声でハッと顔を上げた。どうやら、少々舟をこいでいたようだ。
老人はキョロキョロと周囲を見回し、横手に立っている青年に目を止めた。
「やあ、こんちは」
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
恐縮する青年に、老人は笑う。
「いやいや、年を取ったせいか、ちょっとぼんやりしているとすぐにうとうとしちまう。いつも餌だけ取られて終わってしまうんだ。起こしてくれて助かったよ」
言いながら糸を引き上げ、針先に餌をひっかけてからまた垂らす。
「あんたさんは学生さんには見えませんが、観光か何かですかい?」
老人の問いかけに、青年はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜた。
「ああ、いえ、ちょっと、ロゼリア学園について記事にしようと思って……物書きの端くれなんですよ」
「へぇ、作家さんかい。そりゃすごいね」
「作家、というほどのもんじゃないですよ」
青年は赤い顔でそう言って、湖のほとりにある小さな家を指さした。
「学園の成り立ちについて本にしようと思って調べてるんですが、あの家が学園創始者のシュルツさんが住んでおられたところだっていうのは、本当ですか?」
「ん? ああ、そうだよ。今は誰も住んどらんが、手入れは欠かしておらん」
「あのロゼリア学園を作った方の家にしては、ずいぶんと小さいですね」
眉根を寄せてそう言った青年に、老人は笑う。
実際、納屋か何かと見まごうほどのこじんまりとした家なのだ。青年がいぶかしむのも仕方があるまい。
「何でも子ども時分に自分で建てられたそうだよ。愛着があったんだろうな。まだあの人が生きておられる頃に街中に住まいを用意すると言うたそうだが、首をお振りにならんでな」
「そうですか……シュルツさんはまだ十代の頃に都に行かれて、三十になったばかりで戻って来られて、稼いだ全財産を費やして学園の始まりとなる学校を建てられたとか」
学園の中庭に置かれた石碑に書かれていることを、小首をかしげて青年は口にした。
「ああ。儂が通った頃はもう創られて三十年くらい経ってたから、かなりでっかくなってたがな、最初の頃は小さい子どもに教えるくらいだったらしいよ。そこで勉強した中から都に行ってもっと上の学問を修めて帰ってくるもんが出てきて、子どもに教えるだけの学校じゃなくなっていってな。いつの間にか、今みたいになってたんだ」
そう言って、老人は辺りを見渡した。
「そういう賢い連中が小麦の品種改良やら、農具の発明やら、毛織物の開発やらいろいろ精を出してくれてな。どんどん、暮らしが楽になってったらしいわ。儂が子どもの頃には、もうみんな普通に学校に通ってたな。昔は、家の手伝いとかがあって、学校に通うのもなかなか大変だったと、儂の親は言うとったけどな」
「へぇ……」
青年はしきりと頷きながら手帳に書きつけている。ひとしきり筆を動かした後、彼は顔を上げた。
「シュルツさんは、亡くなる直前まで働き通しだったとか」
「ああ、そうだな。学園の運営とかの方が主だったが、時間が空いたら小さい子の読み書きはシュルツさんが教えなさることもあった。儂もあの人に教えてもらったよ。まあ、賢くないから、十でおしまいにして働くようになったんだが。儂が十六の時に亡くなられたが、今の儂より年を取ってたのに、いつ寝てるんだろうってくらい、ずっと働きなさってたよ」
「結婚はされなかったんですよね?」
「ああ。若い頃はたいそう見た目も良かったらしいから、懸想する娘が山ほどいたらしいけどな。ずっとお独りだった」
そう言った老人は、ふと、口を止める。
「結婚はしなかったが……亡くなる数年前に、小さな女の子を一人、引き取られたんだ」
「女の子、ですか?」
「ああ。きれいな紅い髪と紅い瞳をした子でな。六つかそこらか……確か、十にはならんくらいの子だよ。シュルツさんはいっつもしかめ面をして、子どもにはちょっと近寄りがたい感じだったんだがの、その子といるときだけは、表情が柔らかくなってな。あの人がお笑いになるのを、あの子が来て初めて見たよ」
「女の子……当時十歳になっていなかったということは、今でもご存命ですよね?」
是非とも話を聞いてみたい、と意気込む青年に、老人はかぶりを振る。
「それがな、シュルツさんが亡くなったときから、ふつりと姿を消してしもうたんだ。あの人がたいそう大事にしている子だったから、一人になっても寂しくないように、みんなで世話してやろうと話してたんだが。探しても、どうしても見つからんでな。まさかと思って湖の中も攫ってみたが」
そう言って、老人は湖面に眼を向ける。
「シュルツさんはそりゃ熱心に町のために働いてくださったが、熱心過ぎて、まるで何かに追われているみたいだったよ。儂らがどんなに感謝の言葉を口にしても、渋い顔をなさるばかりで。まだ足りない、まだ足りない、ってな。子ども心にも、正直、この人はこんな人生で良いんだろうかと思うときがあった」
老人は一度言葉を切り、ふと、笑みを浮かべる。
「けど、あの子が来てからのシュルツさんは、本当に幸せそうでな。たった数年だけだったんだがな。もっと早く来てくれていたらなぁ、と、思ったよ」
ツンツンと釣り竿が引かれていて、老人はヒョイと竿を振り上げる。糸の先には、魚が食らいついていた。
それを網に掬い取りながら、老人は呟く。
「儂らが今こんなふうに暮らせているのは、あの人のお陰だ。あの子は、たくさんの人を幸せにしてくれたあの人へのご褒美みたいなもんだったんじゃないかと、口には出さなくても、皆、そんなふうに思ってたんじゃないかな」
青年は、どう返したらいいのかわからず口ごもる。そんな彼に、老人はふと唇の端で笑った。
荒唐無稽な話だと、彼自身も思っている。ただ、人々のために身を粉にして尽くしていたシュルツという人に、彼の功績を認め、何か一つだけでも報いを与えてくれる存在があってくれたのだと、思わずにはいられないのだ。
「神様だって、見てくれてたに違いないからな」
そう言って、また、糸を湖へと投げ入れた老人の言葉を掬い取るように、ひゅぅ、と、一陣の風が吹き抜けていった。
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人の命を軽んじる人にとって、その人自身の命はどれほどの重さを持つのだろうな、と思います。
死刑は、『最も重い罰』ではないのではないかな、とか。