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覚知

 扉まであと三歩、というところでパッとそれが開き、中から満面の笑みが出迎える。

「ただいま」

 シュルツはそう言いながら、全身で「おかえり」と言ってくるロゼの頭をくしゃくしゃと撫でてやる。嬉しそうに首を竦めていたロゼだったが、シュルツの手が離れるとギュッと彼に抱き着いてきた。

 一瞬、最近屋根の修理を頼まれた家で生まれたばかりの仔犬のことがシュルツの頭をよぎる。

 三日前から請けている仕事だが、そこに行く度、シュルツは仔犬たちの大歓迎を受けるのだ。

 思わず笑いを漏らしたシュルツに、ロゼがきょとんと小首をかしげる。そんなところも、仔犬にそっくりだった。

「なんでもない」

 そう応えて、シュルツは家の中に入って扉を閉める。


 パウロに拾われこの湖のほとりの村にシュルツたちが居付いてから、二年間が過ぎた。

 このただいまとおかえりの遣り取りは二年間繰り返されているけれど、あの仔犬たちのように、毎晩、シュルツの顔を見るとロゼはこの上なく嬉しそうな顔になる。


 家の中には、美味しそうな匂いが満ちていた。

「今日はシチューか?」

 腰に抱き着いたままのロゼを見下ろして尋ねると、彼女は笑顔で頷く。そうして、速く速くと言わんばかりにシュルツの手を引き、椅子へと誘った。

 ロゼが作ってくれたのは、先日村人の一人から分けてもらった羊の肉のシチューらしい。羊飼いの報酬のおまけに、と、くれたのだ。

「美味いな」

 一口食べて、そう言うと、ロゼは嬉しそうに顔を輝かせた。シュルツは机越しにワシワシと頭を撫でてやる。


 夕食を終えれば、湯で身体を拭いて、ロゼと共に寝台に潜り込む。

 働いて、夕食を摂って、眠りに就く。

 毎日、これの繰り返し。


 二年前にここに来て、間もなく、シュルツは何でも屋をやっているパウロの手伝いをするようになった。

 半年後にはパウロの納屋を出て、ロゼと一緒に自分で建てた小さな家に引っ越した。

 本当に小さな家だけれども、シュルツとロゼの巣だ。

 昼間はパウロを手伝って、村中から頼まれる色々な仕事をこなす。

 屋根の修理だったり、荷物運びだったり、羊飼いだったり、農作物の世話だったり。

 主には力仕事で、「最近腰にくるようになってな。お前がいて助かるよ」と、パウロに言われた。

 初めのうち不慣れで失敗ばかりだったシュルツにも、皆、「ありがとう」と笑顔を向けてきた。

 一ヶ月、三ヶ月、半年と過ぎていき、いつの間にか、たいていのことがこなせるようになった。

 そうすると、益々喜ばれるようになった。


 力で奪うのではなく、誰かのために何かをしてやることで初めて金を手に入れたとき、シュルツはとても奇妙な気持ちになった。

 はいよ、と、相手から金を差し出してくれたのだ――笑顔で。

 金を受け取ったシュルツがジッとそれを見つめていると、パウロが「何を変な顔をしているのだ」と訊いてきた。金をもらった、と憮然と答えたシュルツに、彼は破顔した。「働いたのだから当たり前だ」と。

 仕事を終えて帰るとき、依頼主からは「また頼むよ」と言われた。「また来て欲しい」、と、言われた。

 そんなこと、シュルツは言われたことがなかった。

 誰かに必要とされること。

 誰かに感謝されること。

 どちらもシュルツが知らなかったことだ。

 それからも、シュルツは村の者のために働き、金を得た。

 拳を振るうことも、剣を振り上げることもなく、毎日の糧を得た。


 働いて、家に帰り、ロゼの笑顔に迎えられて、彼女が作った食事を摂って、夜は柔らかな布団の中で温かな彼女を抱き締めて眠る。

 微睡の中で、シュルツは、これが「生きる」ということなのだと思った。

 だから、皆、命を惜しむのだと知った。


 シュルツはこれまで死にたいと思ったことはないが、同時に、死にたくないと思ったこともなかった。

 彼にとって生きるということはさして意味のあるものではなかったから、命乞いをされても、彼らが何故そんなに足掻くのかが、解からなかった。


 確かに、コレが「生きる」ということなら、皆、死にたくないと思うだろう。


 そう思うと同時に、シュルツは多くのことを悟った。

 人を殺すということは、ただ、命を奪うだけ――心臓の鼓動を止めさせるというだけのことではなかった。

 シュルツは、彼らからコレを奪ったのだ。

 生きるということがどんなものかを知って、シュルツは断罪の女神の言わんとしていたことを理解した。


 確かに自分は咎人だ。

 罪を犯したのだ、と、実感した。


 ――無意識のうちに腕に力がこもっていたのか、抱き締めていたロゼがもぞもぞと動く。

 胸元に目を落とすと、暗がりの中でも判る深紅の瞳がシュルツをジッと見つめていた。

「悪い。痛くしたか」

 力を緩めてそう問うと、ロゼがフルフルとかぶりを振る。そうして、小さな手を伸ばしてシュルツの頬に触れてきた。

 言葉はなくとも、彼女が自分のことを案じていることが伝わってくる。

 そんなロゼに、シュルツの胸の中には彼女を愛おしいと思う気持ちがぶわりと膨らんだ。

 息が詰まったように苦しいのに、手放したくはない、そんな感覚。

 しばらくは、自分を苦しめるこの気持ちが何なのかが解からず、苛立つこともしばしばだった。

 この想いに名前を付けることができたのがいつだったのかは、シュルツにも判らない。だが、ふと気づいたときには、自分はロゼのことが愛おしいのだと、受け入れていた。

 初めて会った時、ロゼに笑顔を向けられて覚えた胸の疼き。あれは喜びだったのだと、今なら判る。この村に来て他の者からも笑いかけられるようになったが、ロゼのそれとは違った。ロゼの笑顔はシュルツにとって特別で、何にも代え難いものだった。

 ロゼがシュルツに向けてくれる想いは、女神に作られた時に彼女によって与えられたものかもしれない。けれど、この二年間を共に過ごすことでシュルツの中に湧いた想いは、彼自身から生まれたものだ。

 たとえロゼのそれが偽りのものだとしても、シュルツが彼女を大事に想う気持ちは、真実なのだ。


「何でもない」

 シュルツがそう答えると、ロゼは安堵したように口元を綻ばせた。

 そんな彼女を見ると、シュルツの胸がギュッと締め付けられたように苦しくなる。

 ロゼの姿は二年前と変わらず五歳か六歳の幼い少女のままだ。それが、彼女がヒトではないという事実を思い出させる。今はまだ成長が遅いだけだと慰めの声をかけられるが、いずれ、村人にも奇妙に思われるようになるだろう。


(でも、もうすぐ終わるんだ)

 シュルツは柔らかな紅い髪をそっと撫でる。

 断罪の女神が罪を理解するために彼に与えた猶予は、三年間だった。

 そのうちの二年が過ぎている。あと一年したら、シュルツはロゼと共に命を落とすのだ。

 死にたくないな、と、シュルツは思った。

 ロゼと共に、このまま生きていたい、と。

 だが、自分の罪を知った今、その思いを抱きながら死ぬことが罰なのだと解かっている。

 死ぬということの意味が解らなかった二年前とは違って、シュルツにとって、確かに死は罰だ。


 けれど、同時に、ロゼと共に逝くのなら、それはけっして耐え難いものではないなとも、シュルツは思った。


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