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転機

 生きることに決めたなら、取り敢えずするべきなのは空腹を満たすことだ。


 そう考えて、少年は子どもを連れて街道まで出てきたのだが。


 女神の神殿を出てから三日が過ぎても、彼らが口にしたものは、旅人の喉を潤すためにと植えられた街路樹に実った果実くらいのものだった。

 今もまた、少年はため息混じりで垂れ下がった枝から橙色の実をもぎ取る。嫌いではないが、いい加減食べ飽きた。

 もちろん、地図もない状態でどうにかこうにか街道くんだりまでやって来たのはこれが目的ではない。そこを通る者から金目の物を奪うためだ。

 そのためなのだ。

 断じて、こんな実のためではない。

(クソ)

 胸の内で唸りながら、もいだ実を脇に立つ子どもに突き付けた。そうして自分のためにもう一つむしり取る。


 ここがどれほど辺鄙な場所なのかは知らないが、街道についてからの二日間で人の姿を見たのは三回ほどだ。

 その三回とも、当然少年は襲おうとした。しかし、いざ少年が足を踏み出そうとすると、必ず子どもが珠のような涙をこぼすのだ。


 ただ、目からしょっぱい水を溢れさせているだけのこと。

 ただそれだけのことのはずだというのに、その様を見ると決まって少年の心臓が変なふうに打ち始め、息苦しさと胸痛に見舞われてしまう。


 三度試みて、三度しくじった。

 そして、三度もあれば、さすがに悟る。

 この子どもには、少年の『良からぬ考え』が伝わるのだと。多分、草原で泣いたのも同じ理由だったのだろう。

 少年が誰かを害そうと思うと、子どもは泣くのだ。まるで、彼のその考えが子どもを傷付けでもするかのように。


 子どもの涙など気にせず、やってしまえばいい。

 頭はそう命じるのに、どうしてか、紅い瞳から零れ落ちる雫を見てしまうと、シュルシュルとやる気がしぼんでしまう。どうしても、足が動かなくなってしまうのだ。


 少年は二つ三つ実を採って、木の根元に尻を落とした。と、すぐさま子どもが左隣に座り込む。ピタリと寄り添う彼女は、眉間にしわを刻んだ彼と目が合うと満面の笑みを浮かべた。


 いつもそうだ。

 この子どもは、いったい何がそんなに嬉しいのか、彼と目が合うたび、顔を綻ばせる。


 少年は唇を曲げて顔を背け、果実にかぶりついた。

 いい加減、この先どうするかを決めなければ、遠からず野垂れ死ぬことになるだろう。三年など、待つ必要もなく。


(人里に、行くのか……?)

 自問し少年はグッと奥歯を食いしばる。

 そこに良い思い出はひと欠片もない。

 彼の中に残る一番古い記憶は十年ほど前――多分五つにはなっていないだろう頃のものだ。親の姿はそこにはなかった。死んだのか、置いて行かれたのかも判らない。

 とにかく腹が減っていて、何か食い物を求めて村の中をうろついていたが、役に立たない餓鬼に施しを与えようという者はいなかった。何度か盗みを働いたら、袋叩きにされて村から追い出された。

 それからは、昼は村の外の森に潜んで多少なりとも食べられるものを探し、見つからない時には村へ戻ってゴミを漁ったり盗んだりして糊口をしのいだ。

 そんな日々でもやがて身体は大きくなり、獣を狩る中で身につけた力や技で、いつしか、ヒトとも戦えるようになった。獣を獲るよりヒトから奪う方が遥かに簡単だった。

 そう、少年は、今だってやろうと思えばいくらでも奪えるのだ――彼の左半分を温めているコレさえいなければ。


 このままだと、飢え死に一直線だ。

 はぁ、と大きくため息をついた時、彼の耳に微かな音が届く。

 少年は耳を澄ませた。

 風の音でも、もちろん、鳥のさえずりや獣の声でもない。

 そう、これは、馬の蹄と馬車の車輪、だ。

 少年は反射的に立ち上がった。が、ハタと足元を見下ろす。

 子どもはまだ座ったままで、大きな紅い目が彼を見上げていた。

 やはり、明確な強奪の意思を抱かなければ、大丈夫らしい。


 どうしようかと決めあぐねているうちに、馬車の音はどんどん近づいてくる。

 道の彼方に見えるのは、二頭の馬で引かれた幌馬車だ。行商人か何かだろうか――結構大きい。御者台にいるのは初老の男一人きりだが、もしかすると、荷台に何人か乗っているのかもしれない。


 いい鴨だ。馬車ごと奪えば、楽に移動できるようになる。


 そう思ったとき、小さな手がギュッと彼の左手を握ってきた。視線を下ろせば、紅の瞳が潤み始めている。

(クソッ)

 少年は空いている右手で頭を掻きむしった。

 本当に、厄介だ。

「やらねぇよ」

 ボソリと告げると、子どもの顔が一転輝く。と、また、少年の心臓が痛くなった。


 思わず胸元を握り締めた少年と小首をかしげた子どもの前で、馬車が停まる。

「お前ら、どうしたんだ? 父ちゃんや母ちゃんは?」

 御者台の上から尋ねてきたのは、白いひげを蓄えた初老の男だ。

 こんなふうに会話を交わすことなど初めてで、少年はとっさに言葉を返すことができなかった。と、男が眉根を寄せる。

「いないのか? 盗賊か獣にでもやられたのか?」

「いや……」

 まさか自分が強盗だとは言えず、少年は一層口ごもった。そんな彼の態度を不審がる素振りもなく、男は少年と少女の間で視線を行き来させる。最後に、しっかりと握り合わされた二人の手に眼を止めた。


「どこかから逃げてきたのか? 帰る場所はあるのか?」

 訳アリだと察したのか、男はひそめた声でそう訊いてきた。そうして周囲を見渡すと、少年の答えを待たずに顎をしゃくる。

「早く乗りな」

「?」

「子どもをこんなとこに放っておけないだろう。取り敢えずオレんとこに来な」

 親切ぶった言動をそのまま鵜呑みにしてはバカを見る。

 何か魂胆があるのではないかと少年は男を見据えたが、子どもはそんなことを夢にも思っていないようだった。彼女は少年に向けてにこりと笑ったかと思ったら、彼の手を放して荷台の方へと走って行ってしまった。


「あ、待て――」

 少年は慌てて子どもを追いかけ馬車を回ったが、その先でペタリと尻もちをついている彼女を見つける。

「!」

 やはり罠かと子どもに駆け寄り、サッと抱き上げた。彼女を腕の中に庇いながら顔を上げた瞬間、思わずのけぞる。

「ああ、すまんすまん。驚かせたな。でもそいつは悪さしない奴にはおとなしいんだよ」

 御者台から笑い声混じりで男が言ったが、少年は荷台から目を逸らせることができなかった。

 そこにいたのは、仔牛ほどもあるのではなかろうかというほどの、犬だ。ピンと立った耳に長い鼻面は狼のようにも見える。毛皮は少年の髪のように漆黒で、金色の目と赤い口、白い牙だけがくっきりとしていた。

「オレの相棒、用心棒だけどな、子どもには優しい奴だ。食い付きゃしねぇから早く乗りな」

 男がそう言うと、まるで相槌を打つかのように短く犬が吠えた。


 乗らなければ犬にビビッているように見えるだろう。少年にとって、それは耐え難い屈辱だった。

 彼はまず自分が乗り込み、身を乗り出して子どもを持ち上げる。そうして、できるだけ犬から遠ざけるように背後へ押し込んだ。

 だが、警戒する少年の前で犬は大きなあくびを一つしたかと思うと、前足の上に顎をのせて丸まってしまった。


「オレはパウロ、そいつはヴォルフ。お前らは?」

 そう言いながら、パウロと名乗った男が手綱を振るう。

 問われているのが名前だとは、すぐには気づけなかった。気づいても、答えることができなかった。

 子どもの名前は知らないし、彼も名前を持っていなかったから。


「……シュルツ、と、ロゼ」

 走り出した馬車の中、しばしの逡巡ののち、少年はそう告げた。

(シュルツ)(ロゼ)、か。お似合いだな」

 二つの名前がその場でとっさに捻り出したものだと、パウロは気づいたのかもしれない。だが彼は、それ以上詮索してくることなく、陽気な口調でとりとめのない話を垂れ流し始める。少年たちがうんともすんとも返さないのも気にせずに。


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