諦念
ふと気づけば、少年は野原の真ん中に立っていた。
つい一呼吸前までは、断罪の女神の神殿の中にいたはずだ。
なのに今は、見上げればどこまでも続く青い空、見下ろせば膝のあたりまで埋もれる草原だ。
「夢……?」
彼は思わず呟いたが、ひりつく手首に目を落とせば、戒めの跡が赤く残っていた。
大勢に追い立てられて囚われたことも、女神の前に引きずり出されたことも、現実だ。女神から下された裁きも。
――それならば。
少年は、ハッと辺りを見回す。
彼の後ろに、鮮やかな紅い色。
いた。
神殿の中で見ても小さかったが、この広い野原の中に立つ子どもは、あの時よりもさらに小さく見えた。
目が合うと、彼女は髪と同じ紅い瞳を煌めかせ、パッと満面の笑みになる。
刹那、少年の胸が見えない手で握り締められたような痛みに見舞われた。
まただ。
少年はみぞおちを押さえて渋面になる。子どもが笑うと、どうしてそこが痛むのか。
これはきっと、彼女と『つながれた』せいに違いない。
彼は胸元から覗く紅い紋様に眉をしかめる。子どもを見たときほんの一瞬、本当にほんの一瞬、ほんの少しだけ、胸の中がふわりと軽くなったように感じたのも、『つながれて』いるせいなのだ。
そんなふうに感じたのが、無性に腹立たしい。何だか、自分の中に、自分のものではない領域があるような気がする。
少年はにこにこと屈託なく笑う子どもを見下ろした。
彼には、女神が何をしたいのか、何をしようとしているのか、さっぱり判らなかった。
女神は、この子どもは三年経ったら死ぬのだと言った。その子どもとつながれた彼も、三年後に死ぬのだと言った。
――何故、三年の猶予を与えたのか。
その三年の間に、彼がまた人を殺し奪うと考えなかったのか。
見たところ、子どもがくっついてきている他に、少年に戒めはない。その子どもにしても、目に見えるような鎖や何かがあるわけではない。
彼はチラリと子どもに目を走らせた。
こんな小さな手足なら、彼が走れば簡単に置いていけるだろう。
(そうだ、置いて行ってしまえばいい)
独りになって、残りの三年間も好きなように生きてやる。
気付いたときには、少年は奪われ、奪い返して生きてきたのだ。
今更、他の生き方などできやしない。
少年の腹がグゥと鳴る。
(『つながり』など、知ったことか)
取り敢えず、ヒトがいるところに行こう。
そして腹を満たすのだ。
一歩を踏み出しかけたとき、ふいに、女神の問いかけが脳裏によみがえる。
人を殺す、ということの意味。
少年は喉の奥で嗤う。
そんなもの、有りやしない。
どうせたった三年間だ。好きなように生きてやる。
飢えれば奪う――ただそれだけだ。
そう、彼が思ったときだった。
右の袖がくいと引かれる。
見下ろすと、小さな手がそこを握り締めていた。
「放せ――」
振り払おうとした彼の目に子どもの顔が留まり、その瞬間、息が詰まる。
大きな深紅の瞳から、ホロホロと透明な雫が零れ落ちていた。
子どもは声を出すことができないのか、ただ静かに、涙を溢れさせるだけだ。
命乞いの涙は、何度も目にしたことがある。そんなとき、彼らの顔にあるのは恐怖ばかりだった。
だが、今、子どもの眼にそれはない。彼女の眼にあるのものは――何だろう。
判らないが、彼女のその涙を見ていると、恐怖や嫌悪の眼差しを向けられた時には感じたことがなかった胸の痛みが彼を襲う。
(これも、『つながれて』いるせいなのか……?)
少年は右手を払った。
さほど力を籠めなくとも、非力な子どもの手は簡単に振りほどける。
彼は何かに追い立てられるような心持ちで踵を返し、走り出した。
その涙を見ていると――その眼差しを注がれていると、取り返しがつかないほど自分の中の何かが変わってしまうような気がした。
少年は躍起になって足を繰り出したが、しかし、さほど行けぬうちにへたり込む。脚、いや、全身から力が抜けて動けない。
情けなくも倒れ伏した少年の耳に、近づいてくる軽い足音が届く。
顔を上げることもできない少年の視界に、小さな足が入った。と、子どもは彼と同じようにペタリと地に伏せ、目の高さを同じにして覗き込んでくる。
今の彼女の眼差しにあるのは、先ほどの涙をこぼした時とは違う色だった。あれとは違うが、前にも見たことがある。
そう、まだ、断罪の女神の神殿にいたときのことだ。
女神の前にいたとき、あそこを追い出される直前に、子どもは同じような眼で彼を見て、彼の頬に触れてきた。
そして、それを向けられていると、少年の胸に、あの時と同じ奇妙な息苦しさがこみ上げてくる。
(だから、何なんだよ、これは)
少年は奥歯を食いしばった。心底、訳が解からない。
己の中に渦巻く不可解さに苛立つ彼の頭を、子どもは華奢な手でふわふわと撫でてきた。
「俺は、お前を置いていこうとしたんだ」
仏頂面で告げると、その言葉の意味が解っているのかいないのか、彼女はにこりと笑った。そこには悪意の欠片も感じられない。自分に対する悪意がない眼差しが存在するなど、今まで彼は知らなかった。
しばらくされるがままに撫でられていると、次第に力が戻ってくる。
どうやら、彼女と距離を置くことはできないらしい。
三年間、この子どもと共に過ごすしかないのか。
少年は、記憶にある限り誰かと行動を共にしたことがない。ずっと、独りだった。どんな時でも独りきりで生きてきた。他人が必要だなど、頭の片隅をよぎったこともない。
うっとうしい。
めんどくさい。
いっそ、三年を待たずに命を絶ってしまおうか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。今死のうが三年後に死のうが、大差はない。
が、その時、ふと、少年の中に疑問が閃いた。
もしもそうしたら、彼と命がつながっているというこの子どもは、どうなるのか。
(一緒に、死ぬのか……?)
刹那。
嫌だ、と思った。
どうしてかは解からないが、どうせあと三年しかないこの子どもの命を縮めることを、彼はしたくないと思った。
(くそ)
いったい、何なんだ。
自分のことだというのに、さっぱり訳が解からない。
足手まといにしかならないこんな子どもと一緒にいなければならないなんて、煩わしいことこの上なかった。
だが、離れることができないのならば、仕方がない。
深々と諦めのため息をついた少年に、何故か、少女は満面の笑みを浮かべて返した。